百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

狸囃子

「タヌキバヤシ
狸囃子、深夜にどこでとも無く太鼓が聞えて来るもの。東京では番町の七不思議の一つに数えられ(風俗四五八号)、今でもまだこれを聴いて不思議がる者がある。東京のは地神楽の馬鹿ばやしに近く、加賀金沢のは笛が入っているというが、それを何と呼んでるかを知らない。山中ではまた山かぐら、天狗囃子などといい、これによって御神楽岳という山の名もある。
柳田国男『妖怪名彙』)

 

 

 タヌキバヤシ柳田国男先生の『妖怪名彙』に記載されている「音の怪異」です。深夜にどこからともなく、太鼓の音が聞こえてくる、祭囃子が聞こえてくる、といったもので、タヌキバヤシは所謂「本所七不思議」(本所、すなわち現在でいうところの東京都墨田区に伝わる怪談奇談の総称で、基本的にそれらの怪異は狸の仕業とされる)のひとつですが、似たような怪異は様々な地域で伝わっています。『妖怪名彙』における「タヌキバヤシ」の項目内で言及されている「山かぐら」や「天狗囃子」もまた、正体不明の異音ですが、これは山中での怪異です。また、山口県の屋代島では、毎年六月になると、どこからともなく太鼓の音が聞こえてくる「虚空太鼓」と呼ばれる怪異が伝わっており、「タヌキバヤシ」のような音の怪異が都心・山間・臨海を問わず、当時の人々に広く経験されていたことがわかります。


 タヌキバヤシに関する合理的な説明としては「遠くで行われていた祭事のお囃子や稽古の音が、風に乗ったり、山間に反響したことによって、遠くまで聞こえてきたものである」というものが一般的です。実際、現代とは異なり、江戸時代の深夜というものは随分静かなものだったでしょうから、反響した音が風に乗って、遠くまで運ばれることはそう珍しいことでもなかったのでしょう。


 しかし、当時の人々にとって、タヌキバヤシを怪異たらしめていたのは、「正体不明の祭り囃子のような音がどこからともなく聞こえてくる」という点よりも、そうした異音が「深夜に聞こえてくる」という点が大きかったのではないでしょうか。私たちが何かを考える際、無意識に現代の常識というフレームの中で考えてしまいがちです(常識というのは得てして目に見えにくいものなのです)。現代であれば、深夜まで祭りが行われることも、遅い時間に青年団が祭りにむけて太鼓の練習をすることもそう珍しいことではないでしょう。しかし、江戸時代においては、そうしたことは(ありえないことではないにせよ)、そうそうあることではなかったのではないでしょうか。


 「夜中に爪を切ると親の死に目に会えない」という言葉があります。これは「爪を切る=世をつめる」という言葉の語呂合わせから、「夜に爪を切ると早死にする(親よりも早く死ぬので親の死に目に会えない)」という発想が生まれたのだとか、「夜に爪を切ると暗いので、誤って指を切ってしまいやすくなるから、その傷が化膿し、早死にしてしまうのだ」とか、この言葉が誕生するきっかけとなったそれらしい理由が語られますが、元来この言葉はもっとシンプルに、「浪費を戒めるための警句」であったと考えられます。


 たとえ深夜であっても祝祭的なまでに灯りが煌めく現代とは違って、江戸時代において灯りとはとても貴重なものでした。蝋燭などというものは途轍もない高級品で、大商人の家や遊郭などでしか使うことはできず、一般人は油に火を灯し、わずかな灯りで夜を照らしていました。そして、そんな油でさえ、ひどく高価なものだったので(「姥ケ火」「油坊」など、油を盗んだ人間が後に怪火の化け物になる話も多いことからも、いかに当時油が貴重であり、それを盗むことが重罪であったのかが伺えます)、多くの人々は日が沈めば眠るしかなかったのです。そして、「わざわざ夜に爪を切る」というのは、そんな貴重な油に火を灯して、爪を切るということですから、当然「とても贅沢な行為」だったわけです。よって「夜に爪を切るような贅沢を繰り返していたら、故郷の親の死に目などの急場で必要な金がなくなる=夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という言葉が生まれたのです。


 さて、このように江戸時代において夜に灯りと灯すことが、如何に贅沢なことかおわかり頂けたでしょうか。そんな時代、ましてや深夜に祭りをしたり、その稽古をするなどということは(たとえ物理的にできないことではないとしても)、多くの人々からすればやはり「ありそうにないこと」だったのでしょう。だからこそタヌキバヤシのような音の怪異は多くの地域で伝わっているのです。


 しかし、タヌキバヤシには、実は他にも面白い特徴があります。博覧強記の歌人柴田宵曲(1897-1966)が編纂した『奇談異聞辞典』によれば、「タヌキバヤシの音の所在を求めて、音のする方へ向かっても、音は逃げるように遠ざかってしまう」そうです。またさらに、劇作家であり、民話収集家でもある岡崎柾男氏(1932-)が採集した話の中には、「タヌキバヤシの音を追いかけているうちに夜が明けると、全く知らない場所にいた」というある種の異界探訪譚のようなものもあったようです。もちろん、これらの特性は後世の創作や誇張であり、実際のタヌキバヤシは単なる音の怪異だったのでしょう。しかし、「タヌキバヤシを追いかけるうちに見知らぬ場所にいた」という異界探訪譚めいたこの話は、現代におけるある有名な怪談に通じるようで興味深いところがあります。その怪談とは…。

 

 

「きさらぎ駅」
ある女性によって電子掲示板に書き込まれた怪異。その女性が新浜松駅から静岡県の某私鉄に乗っていると、いつもは数分間隔で停まるはずの電車が二〇分以上停車しないことに気が付く。不安になり始めた彼女は、しばらくしてやっと辿り着いた駅で降車するが、その「きさらぎ駅」という名の駅は付近に人家も見えないところに建つ無人駅だった。その場所がどこなのかもわからない女性は携帯電話で家族に連絡するも、彼女の父親が調べてもそんな駅は見つからないという。そこで警察にも連絡するが、いたずらだと取り合ってもらえない。しかもどこからか太鼓の音と、それに混じって鈴の音が聞こえてくる。不気味に思った彼女は仕方なく線路を辿って戻りはじめるが、突然聞こえた線路の上を歩いてはいけないという声に振り返ると、片足を欠損した老爺が立っていて、すぐに消えてしまった。恐怖に慄きながら女性は電車で通った覚えのある「伊佐貫」という名前のトンネルを抜け、そこで出会った人の車に乗せてもらう。安堵する女性だが、車は一向に町へ戻る気配を見せず、運転手にどこへ行くのか尋ねても答えない。その上意味のわからない独り言を呟き続ける。彼女はここで隙を見て逃げることを電子掲示板に報告するが、そのまま彼女の書き込みは途切れ、話は唐突に終わる。
(朝里樹『日本現代怪異事典』)

 

 

 「きさらぎ駅」は、2ちゃんねるのオカルト版に投稿された、所謂「異界駅」に関する怪談です。この「きさらぎ駅」以降、「かたす駅」「やみ駅」「ひつか駅」「月の宮駅」といった、数えきれないほどの類似の体験談が語られましたが、やはりきさらぎ駅の知名度はその中でも一線を画しています。きさらぎ駅には、古典的な怪談と比較した時に興味深い点が無数にあり(たとえば片足の老爺などは古典的な山の妖怪の特徴を色濃く反映しています)、まともに取り合えばとんでもない分量の記事が書けそうなのですが、今回の主題はあくまでタヌキバヤシです。よって、きさらぎ駅の怪談で注目したいのは駅の周辺でどこからともなく聞こえていた「太鼓の音」や「鈴の音」です。これはまさにタヌキバヤシと類似の怪異ではないでしょうか。


 そもそもタヌキバヤシとは言いますが、本当に狸が音を出しているわけがないのです(狸はただの動物ですし、あの犬と変わらないような前足で太鼓を叩くことは不可能でしょう)。実際にタヌキバヤシの音を追いかけているうちに狸を見つけた、というような話も聞きません。「タヌキバヤシの正体が狸である」というのは、狸からすれば事実無根の濡れ衣であり、いい迷惑でしょう。


 「タヌキバヤシの音を追いかけているうちに夜が明けると、全く知らない場所にいた」という先ほどの話を採集した岡崎柾男氏は、カストリ雑誌専門の出版社に勤務していた方であり、学者ではなくエンターテイナーに近い方だったようなので、前述したとおりこの話にどれほどの信憑性があるのかはわかりません。しかし、「異界への訪問」を想起させるようなタヌキバヤシにまつわるこの話と、異界駅であるきさらぎ駅に太鼓の音が鳴り響いていたというこの奇妙な符号(もちろん、きさらぎ駅が創作で、そのエッセンスとして片足の怪や、音の怪を取り入れただけと解釈することが最も現実的ではあるのですが)は、私たちに「何かあるのかもしれないな」という想像力を働かせる余地を与えてくれます。


 タヌキバヤシを追いかけると、見ず知らずの土地へとたどり着いている―。それは、タヌキバヤシが異界から響く音だったからなのかもしれません。

 

 

油すまし

「アブラスマシ」
肥後天草島の草隅越という山路ではこういう名前の怪物が出る。ある時孫を連れた一人の婆さまが、ここを通ってこの話を思い出し、ここには昔油瓶下げたのがでたそうだというと、『今も出るぞ』といって油すましが出てきたという話もある。
柳田国男『妖怪名彙』)

 

 アブラスマシはゲゲゲの鬼太郎にも登場する妖怪です。鬼太郎の世界では、ぬりかべや砂かけ婆らの鬼太郎ファミリーに次ぐ、準レギュラーのような立ち位置になっていますが、実際のところこの妖怪に関してはほとんど何もわかっていません。アブラスマシといえば、全身に蓑を羽織り、文楽の蟹首人形のような顔をした妖怪で、知能が高く、妖怪界における参謀長のような扱いで描かれますが、これは水木漫画におけるデザインや、1968年に公開された映画『妖怪大戦争』におけるアブラスマシの設定に過ぎず、実際にアブラスマシに関するそうした伝承があるわけではありません。近年では草隅越に近い栖本町河内にある三体の石仏が「すべり道の油すましどん」と呼ばれていることが地元からの報告で明らかになりましたが、これが妖怪アブラスマシとどのような関係にあるのかもやはりわかっていません。しかし、アブラスマシの伝承がかつての天草の地に息づいていたことだけは確かなようです。


 『妖怪名彙』におけるアブラスマシの解説は、大正から昭和にかけて、天草地方の民俗調査を行っていた浜田隆一先生の『天草島民俗誌』からの引用となっています。まずは『天草島民俗誌』原典を引いてみましょう。

 

 

ある時、一人の老婆が孫の手を引きながらここ(草隅越)を通り、昔、油ずましが出おったという話を思い出し、『ここにゃ昔油瓶下げたとん出よらいたちゅうぞ』と言うと、『今も―出る―ぞ』といって出てきた。
(浜田隆一『天草島民俗誌』)

 

 

 まず、原典では油「すまし」ではなく、油「ずまし」となっています。長らくこれは柳田先生の誤記によるものかと思われていましたが、実際に現地では油をしぼることを「油をすめる」と言い表す方言が存在していたことがわかり、柳田先生の表記こそが(もしくは浜田先生、柳田先生の両方が)正しいという可能性も出てきました(もしもアブラスマシが「油をしぼる」妖怪であるのなら、それは「コトリゾ」のように「子どもの油をしぼる」妖怪であり、子脅しの道具として語られていた妖怪という可能性もあります)。


 また原典とは異なり、『妖怪名彙』ではアブラスマシを「怪物」と明記しているため、後世の解釈ではアブラスマシを「腰に油瓶を下げた化け物」として解釈することが主流となったようです。しかし、作家の京極夏彦先生は原典の『天草島民俗誌』には、「油瓶下げたのが出た」としか書かれていないため、「アブラスマシは単に「油瓶が下がってくる怪異」だったのではないか」と考察しておられます。実際のところ、『妖怪名彙』はカテゴリー毎にまとめて妖怪の名前を記載しています。たとえば最序盤にはシズカモチやタタミタタキ、タヌキバヤシといった所謂「音の怪異」がまとめられており、終盤は、テンピやキカやジャンジャンビといった「火の怪異」がまとめられています。では、アブラスマシの周辺にはどのような妖怪がまとめられているのでしょうか。まずアブラスマシの直前に記載されている妖怪は「ヤカンヅル」という樹上からヤカンがぶら下がってくる怪異です。その前にはフクロサゲという白い袋がぶら下がってくる怪異について書かれています。また、アブラスマシの直後には「サガリ」という古樹から馬の首がぶら下がってくる怪異が記載されています。以上のことから、どうも柳田先生自身も、アブラスマシを所謂「下がり系の怪異」(樹上などから何かがぶら下がってくる怪異)として認識されていたようです。また、当時の民俗学においては怪物という言葉は、現代のように「何かしらの実体を伴うモンスターのようなもの」だけを表すのではなく、文字通り単に「怪しいモノ」全般を指す言葉であったので、やはりアブラスマシは単に樹上から油瓶が下がってくるだけの怪異だった可能性は非常に高いと思われます。


 アブラスマシは「下がり系の怪異」であると共に、「今も坂」(または今にも坂)と呼ばれる怪異の要素も含んでいます。「今も坂」とは、たとえば「昔このあたりの坂には大入道が出たそうだ」と噂をしていると、「今もでるぞ」といって大入道が出てきたり、「昔このあたりに血まみれの手首が出たそうだ」と話していると、「今も」といって手首が坂を転がってきたり…というような話です。このような話は九州を中心に比較的広範囲に分布しています。「怪を語れば怪に至る」ということなのでしょうか。たしかに血まみれの手首やら、大入道やらが出てくれば怖いかもしれませんが、「今も―出る―ぞ」と微妙に節をつけて油瓶が下がってきたとしてもそれほど怖くはないように思います。


 以上のように油瓶は恐らく「下がり系の怪異」であり「今も坂系の怪異」であることは間違いないのでしょう。しかし、下がってくるのが単なる油瓶なのか、腰から油瓶を下げた化け物なのか、それとも子どもの油をしぼる恐ろしい何かなのか…それを確かめるには草隅越(現在の草積峠)でアブラスマシの噂をしてみるしかないのかもしれません。

 

天井嘗

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鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

「天井嘗」
天井の高は灯くらうして冬さむしと言へども、これ家さくの故にもあらず。まつたく此怪のなすわざにて、ぞつとするなるべしと、夢のうちにおもひぬ。
鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

 天井嘗(てんじょうなめ)は文車妖妃と同じく、『百器徒然袋』に描かれた妖怪です。この妖怪も兼好法師の『徒然草』に着想を得ているようで、石燕は『徒然草』第五十五段にある「天井の高きは、冬寒く、灯暗し」を詞書に引用しています。石燕は天井の闇はこの妖怪が作っている、というのです(詞書にある「天井の高は灯くらうして」からは「灯食らう」、すなわち「灯りを食らって消す(闇をつくる)」という洒落も読めます)。


 山岡元隣の『百物語評判』巻二には、「垢ねぶり」という妖怪に関する記述があります(石燕も「垢ねぶり」を「垢嘗(あかなめ)」という名で『画図百鬼夜行』に描いています)。その記述によれば、「水から生まれた魚が水を飲むように、垢ねぶりもまた塵や垢の気が積もって化生したものである」と述べられています。どうも江戸時代においては、生物にしろ化け物にしろ、「自分が食らう物の中より生まれる」という認識があったようです。

 

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鳥山石燕画図百鬼夜行』より「垢嘗」)

 

 そうであれば、天井を嘗める天井嘗は、天井が化生した妖怪、ということになるのでしょうか。そもそも石燕の『百器徒然袋』に描かれた妖怪は、「百器」という名前からもわかる通り、基本的に「器物の精」や「付喪神」(物が年を経て妖怪化したもの)として解釈することが可能です。たとえば、「不落不落」は(絵のみから考えるのであれば)「提灯の付喪神」と解釈することが可能ですし、「文車妖妃」も手紙が化生したものですから、やはり「付喪神的なもの」と言うこともできるでしょう。よって、天井嘗もやはり、「天井が化生した存在」、すなわち天井が付喪神化したものである(もしくは少なくとも石燕自身はそういう意図を持って天井嘗を描いたのである)、という解釈もそれなりの説得力を持つように思います。


 実際のところ、天井は家の中にある異界でした。かつての家屋は天井が高く、今のように便利な灯りもそうそうありませんでしたから、そこには常に闇が渦巻き、「見えているのに見えない」場所であったのです。見えない場所であれば、そこに何がいてもおかしくはありません。そんな場所が家の中にある、しかも仰向けに眠るときなぞは常にそんな場所が視界に広がるとすれば、やはりそれは不気味なことだったのでしょう。


 一般的には、天井嘗もまた『百器徒然袋』に描かれた多くの妖怪たちと同じように、石燕の創作であろうと言われています。よく「天井のシミは天井嘗が舐めたことによってできたものである」とか「天井嘗がつけたシミを眺めていると気が狂う」というような説明が様々な書籍でなされていますが、実際にそのような伝承が書かれた資料は今のところ見つかっておらず、あくまで後世の人々が絵から想像したものであるようです。また妖怪研究家の多田克己先生は、『百器徒然袋』に描かれた天井嘗の図像は、松井文庫蔵の『百鬼夜行絵巻』に描かれた「いそがし」という妖怪の図像を模写したものである、と述べておられます。しかし、筆者としては「天井嘗」と「いそがし」が模写と呼べるほど似通ったものには見えません。皆さんはどう思われるでしょうか?

 

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(松井文庫所蔵『百鬼夜行絵巻』より「いそがし」)


 漫画家の水木しげる先生は、鳥取県の境港で過ごした幼少期に、「のんのんばあ」と呼ばれていた拝み屋のおばあさんから、天井嘗の話を聞いたと言います。しかし、これは石燕の絵が先にあって、そこから天井嘗に関する伝承が生まれていたに過ぎないのか、もともとそれに類する怪異や伝承があって、それをモデルに石燕が天井嘗という妖怪の絵を描いたのか、前後関係が判りません。たしかに天井に関する怪談はよくあります。天井のシミが人の顔になったとか、天井から女がぶら下がってきたとか、幽体離脱をして天井に触れる夢を見たが、その時の手形が翌朝も残っていたとか、現代でも天井にまつわる怪談はそれなりに語られているようです。おそらく天井嘗については石燕の創作なのでしょう。「猫娘」の項でもお話しさせて頂きましたが、江戸時代においては「一般的に舐めないようなものを舐める」という行為自体が不気味さのアイコンのようなものだったと思われるので、「何かを舐める妖怪」というのは、それほど想像力を働かせなくとも簡単に創作できてしまうものだったのだと考えられます。


 ただ。筆者個人としては、天井嘗を完全な創作だとしてしまうことにはどうも抵抗があるのです。それは、筆者が「人生で初めて体験者自身から聞いた実話怪談」が、この天井嘗を思わせるようなものだったからです。その話は筆者が小学校一年生の頃に、団地に住む友人のお姉さん(四年生)から聞いた話です。当時から水木作品や『地獄先生ぬーべー』といった妖怪が出て来る漫画のファンだった筆者は、友人の家に遊びにいった時、「こいつはお化けに詳しいからお姉ちゃんがこの前見たやつについて何か知ってるかもしれんよ」と友人がお姉さんに促したのです。今から二十年以上も前の話ですが、やたらとインパクトが強く、今でも詳細をよく覚えています。以下にその話の全容を掲載します。

 

 

う~ん、そんな大した話とちゃうねんけどな。
この前な、夜寝てたら、まよなかに目がさめてん。
でもな、変なんよ。身体が全然動けへんの。

目はあいてるんやけどな、全然うごかれへんの。
そんならな、黒いもやもやが入ってきてん。
何かなぁ、と思ってよく見てたらな。

それはだんだんおっきいとかげみたいなかたちになった。
でもとかげとちがってな、立ってんの。二本足で。
おそわれるんかなぁ、と思ってすごい怖かったけど、声も出やんし身体も動かん。
ああ、もうあかんなぁ、って思ってたらな、そのおおきいとかげがな。
長い舌をのばして天井をぺろぺろなめだしてん。
うん、私はなんもされんかった。天井なめてただけ。
私には見向きもせんからさ、なんかだんだん怖くなくなってきて、ぼーっと見てた。
で、しばらくしたらな、それはすーっと消えていった。
なんかあんまりこわくないやろ。でも最初はこわかってんで。
あれおばけなんかなぁ。

 

 

 もちろん今思えば、この話をしてくれた友人のお姉さんは天井嘗を知っていて、弟や筆者をからかったのかもしれません。それとも単に変な夢を見ただけなのかもしれません。しかし、当時の僕は随分と興奮したものです。「天井をなめるなんてヤツしかいないじゃないか!」と。

 

赤ゑいの魚

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(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

「赤えいの魚」
この魚その身の尺三里に余れり。背に砂たまればをとさんと海上にうかべり。其時船人嶋なりと思ひ船を寄れば水底にしづめり。然る時は浪あらくして船是が為に破らる。大海に多し。
(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

 

 島だと思って上陸したらそれは生物の背中だった、という伝承は世界中に残されています。赤えいの魚もそのような島と見紛うほどに巨大な怪魚です。かつて、安房の国の野島ヶ崎というところに、又吉と佐吉という二人の船頭がおり、大船に乗って航海をしていたところ嵐に襲われ、船は漂流してしまいました。乗組員26名のうち3名が死に、生き残った23人は辛うじて一つの島に漂着しました。しかし、そこには人の姿はなく、ただ見慣れぬ草木が茂り、藻屑のようなものが散乱するばかりで、岩の窪みに溜まった水も全て塩水でとても飲めたものではありませんでした。結局、2、3里(1里は約3.9㎞)歩き回ったところで又吉たちは諦め、船に乗って謎の島から出航しました。その後、しばらく船を進めたところで、先ほどの島が海へと沈んでいくのが見えた、ということです。


 現実に存在する糸巻鱏(マンタ)の仲間には、全長6メートル、幅10メートルに及ぶものがあり、そうしたものからこの伝承が生まれたのだという話がありますが、赤えいの魚の3里(約12㎞弱)とマンタの10メートルでは文字通り桁が違います。しかし、たとえそれがキロメートル単位で巨大なものではなくても、やはり海に関する情報が乏しく、写真や映像も存在しない時代において、船乗り達が洋上ではじめて巨大な生物と遭遇した時の恐怖は想像を絶するものがあったと思われます。大赤鱏の群れが漁船の下を通る際などは、船の下に広がる海が真っ赤に染まるともいわれており、その鮮烈な視覚的インパクトが船乗り達にとって実際に体験した現実を遥かに上回る記憶となって、赤えいの魚のような伝承を生んだとしても決して不思議ではありません。最近では「海洋恐怖症」という言葉もそれなりにメジャーなものとなっており(筆者にもその気持ちは少しわかります)、あまりにも広大無辺な海や、そこに住む巨大な生物に対して、異様な恐怖を掻き立てられてしまう人がかなり多くいることもよく知られています。

 

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(海洋恐怖症の方が恐怖を覚える画像の例)

 

 また、妖怪ではない実際の「赤えい」は、その排泄口が女性器に似ていることから、「男を惑わす」ということで「傾城魚」という異名を持っています。「傾城の美女」とは、城主がその色香に惑い、城の財政を傾けてしまうほどの美女を指す言葉で、似た言葉に「傾国の美女」があります。妖怪研究家の多田克己先生は、「傾城魚」という名前から、その由来を知らない人々の間で「背中に城が乗るほどに巨大な魚がおり、それがある日突然海中に没して城を傾けるのだ」という伝承が生まれたのだ、と述べておられます。


 また江戸時代の医師である橘南谿(1753年~1805年)が、各地に伝わる奇談を集めた紀行文、『東遊記』の後編には「オキナ」なる大魚の話が出てきます(オキナの語源は「大きな魚」の意である、という説が一般的です)。オキナが海上に現れる際には、雷のような轟音が鳴り響き、それは30メートル以上もあるクジラを「まるでクジラが鰯を呑み込むが如く」呑み込んだといいます。また、海面に浮かんだオキナの尾ひれ背びれは、巨大な島々が浮かんでいるように見えた、といいます。まさに尾ひれがついたような信じがたい話ですが、赤えいの魚と同じような巨大魚の話が本邦ではそれなりに信じられていたことはなかなかに興味深いことです。


 さて、赤えいの魚についてさらに面白いのは、非常によく似た怪物が西洋にも伝わっているところです。その中で最も代表的な怪物は恐らく「クラーケン」でしょう。

 

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(Pierre Denys de Montfort『Colossal Octopus』)

 

 クラーケンは主に北欧の海で伝承される怪物です。私たちの認識では、クラーケンは参考画像のように、巨大なタコやイカのイメージが強いですが、実際に伝承されている姿は実に多様です。もちろんタコやイカのような頭足類のイメージで語られる伝承もあれば、甲殻類のような姿で描かれたり、巨大な海蛇のような姿で描かれることもあります。実際のところ、クラーケンの存在は古代から近世にかけての長きに渡って船乗りたちの「現実的な」恐怖であり、かつての船乗り達は海上で遭遇した様々な巨大な生物に対して「あれはクラーケンだ」というラベリングをしていたのかもしれません(だから伝承によって姿がまちまちなのだ、と思われます)。デンマークのベルゲン司教であるエリーク・ポントビタン(1698年~1764年)が、1752年から1754年にかけて出版した『ノルウェー博物誌』には、「クラーケンの背は約1マイル半(約2.4㎞)あり、その触手はどんな船をも呑み込んでしまう」という記述や、「クラーケンは墨のような液を出して、海を真っ黒に染める」という描写があり、ここに記された「触手」や「黒い液を出す」といったキーワードから「クラーケン=頭足類」というイメージが一般化したのではないかと思われます。


 しかし、今回私たちが注目したいのは、「頭足類としてのクラーケン」ではなく、「全長数キロにも及ぶ島のように巨大な怪魚」としてのクラーケンです。ポントビタンの記述におけるクラーケンは約2.4キロであり、島のように巨大なものです。また、デンマークの解剖学者であるトマス・バルトリン1616年~1680年)が1657年に刊行した『解剖学史』には、「ニーダロス(ノルウェー中部の都市の古名)の司教は、海上に島が漂っているのを見て、ミサの供物としてこの島を神に捧げようという敬虔な考えに至った。そこで彼は、祭壇をその島に設置すると、自らミサをあげた。奇跡か偶然かミサの間、クラーケンは微動だにしなかった。そして、ミサを終えた司教が岸に戻るや否や、島は水没し、その姿は見えなくなった」とあり、やはり島のように巨大なクラーケンの姿が描かれています。


 西洋の怪物に関しては、様々なゲームやアニメの所謂「元ネタ」として使われており、詳しい方も多いかと思われます。それに引き換え、筆者は西洋の怪物に関する知識と資料をほとんど持ち合わせていないので、無知が露呈する前にクラーケンへの言及は止めたいと思います(既に露呈しているかもしれませんが…)。しかし、島のように巨大なクラーケンの姿は、赤えいの魚と通じるところがあります。この記事の冒頭に掲載した『絵本百物語』の赤えいの魚の図像も、魚というよりは、「タコの表皮」のように見えます。どこかでクラーケンの話が、本邦に伝わったのでしょうか。しかし、『絵本百物語』の刊行は1841年であり、当時日本は鎖国中です。また、少なくとも前述の『ノルウェー博物誌』や『解剖学史』もまた、本邦の鎖国真っ只中に発刊されています。尤も、これらの資料よりも古いクラーケンに関する類話が、南蛮貿易の時期などに流入した可能性は十分にあります。もしくは赤えいの魚にしろクラーケンにしろ、(妖怪の常として)単に「原因のわからない事象に関する後付けの説明」だったのかもしれません。たとえば昨日まであったはずの島が消えている(実際は航路を間違えただけなのでしょうが)という事象に対して、「島が一夜で消えるはずがない。よって昨日見かけたあの島は巨大な魚だったのではないか」と人々が考えた結果、赤えいの魚やクラーケンのような、島のように巨大な怪物の伝承が生まれたという解釈もそれなりの妥当性を持つと思います。それに、たとえこうした巨大な海の怪物の伝承の元になるような何かがなかったとしても、あまりにも広大な「海」という異界と触れ合ううちに、「海には我々の想像もできないくらいに途轍もなく巨大な生物がいるはずだ」という想像を巡らすということは、文化の違いを超えて、人としてある程度自然で普遍的な心性であるようにも思います。

 

 しかし、そうは言ってもやはり「海は広いし大きい」のです。さすがに数キロに及ぶことはないでしょうが、海の中にはまだまだ我々の知らない超巨大生物が存在している可能性は十分すぎるほど残されているでしょう。江戸時代の地理学者である古川古松軒(ふるかわこしょうけん)はこのように述べています。

 

「かぎりなき大海なれば鯨を呑む大魚もあるべきなり」

 

 

 

じゃんじゃん火

 あれは私がまだ小学生の頃やったかな。

 

 私、高校を卒業するまでは奈良に住んでたんやけどな。その頃住んでた家のすぐ前には大きいお墓があってね。小さい時はそれがすごい怖かったんよ。


 その日はたしかお母さんの買い物についていってたんやけどね。家に着いた時はちょうど日が沈む時分で、空は赤黒い夕焼けやった。

 

 まずお母さんが家の鍵を開けて、ドアをひらいてまだ後ろにおる私の方を振り返ったんや。そしたらな、お母さんの顔が私の方を見た瞬間に、急に真っ青になってん。私は自分がなんか変なんかな、って思った。でも、よく見ると、お母さんが見てたのは私じゃなくて、私の後ろやったんや。それに気付いて後ろを振り返ろうとすると、お母さんが大きい声で「見たらあかん!」って言うた。

 

 でも遅かった。私はもう振り返ってしまってたから。

 

 さっきも言ったように、私の家の前は墓地になってるから、玄関のドアの前におった私の後ろにはお墓の外塀が広がってた。

 

 その上をな。ふらふらと二つの火の玉が漂うみたいに飛んでた。

 

 時間にしたらほんまに一瞬やったけどな。お母さんがすぐに私の腕をつかんで家の中に引き込んでドア閉めたから。私が「お母さん、今の何?」って聞いたら、「あれは見たらあかんもんなんや」って言うてた。

 

 

 

「ジャンジャンビ」
奈良県中部にはこの名をもって呼ばれる火の怪の話が多い。飛ぶときにジャンジャンという音がするからともいう。火は二つで、二つはいつまでも逢うことが出来ぬといい、これに伴う乙女夫川・打合い橋などの伝説が処々にあった(旅と伝説八巻五号)。柳本の十市城主の怨霊の火と伝うるものは、また一にホイホイ火ともいう。人が城址の山に向かってホイホイと二度三度喚ぶと、必ずジャンジャンと飛んで来る。これを見た者は病むというから(大和の伝説)、そう度々は試みなかったろうが今でも至って有名である。
柳田国男『妖怪名彙』)

 

 

 怪談・奇談の採集をしていると、どうもそこに伝統的な妖怪の影が垣間見えるような話に出会うことがあります。本記事冒頭に記載した話は、今から二年ほど前にとある二十代の女性から実際に筆者が聞いた話なのですが、この話に現れる怪異は、ジャンジャンビと言われる怪火と非常によく似ています。


 ジャンジャンビは奈良県各地に現れると言われている怪火です。村上健司編の『日本妖怪大事典』によると、大和郡山市の打合橋では、毎年6月7日に東西から人魂が飛んできて、じゃんじゃんという音を立てながら舞った、という伝説があり、かつてはその霊を慰めるために6月7日には橋の上で舞を奉祀する祭りがあったそうです。


 また、奈良市の白毫寺町では、白毫寺と大安寺の墓地から飛び出る二つの怪火とされており、夫婦川(乙女夫川)の辺りでもつれ合い、またもとの墓地に帰っていく、とされています。これは心中した男女を別々に埋葬したため、二人の魂が火の玉に成って逢瀬を楽しんでいるからだと言われています。


 この火をじっと眺めているとだんだん近づいてくるそうで、一度ついてこられると、たとえ池の中に飛び込んでも頭上を飛び回り、いつまでも離れない、という話も残っています。

 

 昭和63年発刊の『奈良県史一三』によると、奈良市では雨の夜にはジャンジャンビが出て、合戦をするとあります。ジャンジャンビは長い尾を引いた青い火の玉であり、年輩の男の顔が映っており、それは奈良時代に死んだ公卿の怨霊だそうです。さらにジャンジャンビを見ると死に至ることもある、と記載されています。

 

 またジャンジャンビの別名とされるホイホイ火と言われる怪火は、天理市柳本町の怪火であり、安土桃山時代に松永弾正久秀に討たれた十市遠忠の霊と言われており、雨の降りそうな夏の夜に、十市城址に「ほいほい」と呼ぶとやってきて、それを見ると三日三晩高熱にうなされるとされています。

 

 このように、ジャンジャンビ(あるいはホイホイ火)は、そのルーツや特性にはいくつかのバリエーションがありますが、「見た人に祟る怪火」であるところは共通しているようです(むしろそうした共通点があるせいで、本来別なはずの怪異が同じ怪異として認識されているのかもしれません)。人に祟る怪火といえば、「天火」と呼ばれる怪火ですが、ジャンジャンビもやはり天火の一種なのでしょうか。

 

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(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

「天火」
またぶらり火といふ。地より卅間余は魔道にてさまざまの悪鬼ありてわざわひをなせり。
(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

 

「テンピ」
天火。これはほとんど主の知れない怪火で、大きさは提灯ほどで人玉のように尾を曳かない。それが屋の上に落ちて来ると火事を起こすと肥後の玉名郡ではいい(南関方言葉)、肥前東松浦の山村では、家に入ると病人が出来るといって、鉦を叩いて追出した。あるいはただ単に天気がよくなるともいったそうである。
柳田国男『妖怪名彙』)

 

 天火は人に祟る怨霊の霊魂のようなものと目されており、火事や病の凶兆と考えられていたようです(また、余談ですが「天火」とは落雷によって生じた火災、すなわち「雷火」の意もあります)。天火は佐賀や長崎、熊本など九州に伝わる怪火なので、奈良に出るジャンジャンビとの関係性は明確ではありませんが(『妖怪名彙』の「テンピ」は、「尾を曳かない」と明記されており、少なくとも『奈良県史一三』の「長い尾を引く青いジャンジャンビ」の記述とは矛盾します)、「見た人は病む」「見た人にわざわいをなす」という点で、通じるところがあります(天火についての詳説をはじめると、コトリバコ並みのボリュームになってしまうのでここでは避けます)。


 筆者にこの話をしてくれた女性は、男運がなく、悪い男性に騙されて多額の借金を背負わされたこともあったそうです。彼女は筆者に身の上話を色々としてくれましたが、たしかにあまり幸福な人生を送っているとは言えそうにありませんでした。もちろん、そうした彼女の不運が、少女時代に見た奇妙な二つの怪火と何かしらの関係があるのかどうかは誰にもわかりません。 

子取りぞ

「コトリゾ」
出雲地方でいう妖怪。夕方、戸外で遊んでいる子供がいなくなると、子取りぞに奪われたなどという。子取りぞは子供を奪っては脂を搾り、その脂で南京皿を焼くのだという。
(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

 

 妖怪を考える上で、ひとつ非常に重要な視点があります。それは「妖怪が何らかの結果をもたらした」のではなく、「まず結果があり、その結果を説明するために妖怪譚が考え出された」ということです。たとえば、本邦で最も有名な妖怪である河童は、よく人妻を孕ませます。ここでは「河童」という「因」があり、「人妻の妊娠」という「果」が生じているように語られますが、実際は「人妻の妊娠」という「果」が先に存在しています。彼女が妊娠した理由は、間男によるものかもしれませんし、悲惨な事件に巻き込まれたからかもしれません。しかし、そうした「本当の原因」は当然、正直夫に言うわけにはいきませんから、ダミーとしての原因が捏造されます。そこではじめて、「河童にやられた」という「因」が生まれるわけです。このように多くの妖怪は、原因不明の現象(もしくは意図的に原因を秘匿する必要のある現象)に対する説明として生まれてきました。


 コトリゾもそのような妖怪の一つです。コトリゾとはいわゆる「隠し神」の一種であり、子どもを攫う妖怪ですが、「コトリゾの存在」という「因」があって、「子どもが消える」のではなく、「子どもが消えた」という「果」に対してコトリゾが考え出されたのです。


 現代社会においても、子どもが行方不明になる事件は珍しいことではありません。しかし、その多くの理由は「誘拐」や「事故」、「家出」であり、隠さなければならないようなものではありません(むしろ積極的に警察などにその可能性を報告し、協力を仰ぐべきでしょう)。けれども、ほんの数十年前の本邦の村々では、現在とは違った理由で子どもが消えてしまうことがありました。それは「間引き」です。今の社会のように福利厚生が整備されていたわけではない昔の日本において、貧困とそれに伴う飢餓は非常に大きな問題でした。よって、口減らしのために、子どもを殺めるしかなかった家庭もあったのです。そうすると当然、結果として村から一人の子どもが消えることになります。けれども「口減らしのために殺した」などということを大っぴらに言うわけにはいきません。そこで、偽の「因」として考え出されたのがコトリゾなどの妖怪たちでしょう。こうした妖怪が存在する、という言説がある種の常識として共同体に浸透していれば、子どもの消失は不合理な出来事ではなくなります。周囲はなんとなく真相に気が付きながらも、子どもを間引いた家族を咎めることなく「妖怪に子どもを取られた被害者」として扱います(もしかすると明日は自分が自分の子どもを殺さなくてはならないかもしれないのです)。こうした「隠し神」としての妖怪たちは、間引きという行為が当然のように行われていた時代においては、共同体を円滑に営んでいくためになくてはならないものだったのです。


 もちろん、こうした妖怪は、子どもを殺した現実を隠蔽するという後ろ暗い役目だけでなく、子どもを守る役目も持っていました。たとえば、子どもがあまり遅くまで外で遊び、本物の人さらいに拐かされないようにするための「子脅しの道具」として使われることも多かったでしょう。実際、筆者もコトリゾという妖怪は、「子どもの消失」という結果に対する偽の説明として生み出されたというよりは、「子脅しの道具」として生まれた可能性の方が高いのではないか、と思っています。

 

 

小児は夕方に隠れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隠れ婆というのがいてつかまえていくからという。島根県その他ではこれをコトリゾと謂っていた。(中略)出雲の子取りぞなどは子供の油を絞って、南京皿を焼くために使うなどと、まるで纐纈城かハンセル・グレッツェルの様なことを伝えており、東北では現にアブラトリという名もあって、日露戦争の際にも一般の畏怖であった。
柳田国男『妖怪談義』)

 

 

 コトリゾという妖怪がいつ頃から語られるようになったのかはわかりません。しかし、恐らく、「子どもの油で南京皿を焼く」という属性が付与されるようになったのは、日露戦争の少し前あたりからではないでしょうか。日露戦争の十年前には日清戦争がありました。「南京皿を焼く」という特性には、明らかに人々がコトリゾに、当時の戦争相手であった清の人々、すなわち中国人の姿を重ねていることがわかります。

 

 

「ことりぞう」
むかしことりぞうがでた。大きな袋を持っていて、悪い子をその中に入れて連れて行った。
(広島民俗学会編『広島民俗』)

 

 

 『広島民俗』に記載された「ことりぞう」という妖怪の項には、「子どもの油を絞って南京皿を焼く」などという特徴は記載されておりません(代わりに「悪い子を連れていく」といういかにもしつけのためにつけられたような特性が付与されています)。もちろん伝承地域の異なる「コトリゾ」と「ことりぞう」はそもそも別の妖怪である、という可能性も考えられますが、やはり「南京皿を焼く」という特性は日清戦争前後の人々が、子攫いの正体として中国人を想定していたから、もしくは、戦争の相手国である中国に対する敵対感情が妖怪伝承に影響を与えていたから、という可能性が高いのではないでしょうか。


 現在、「神隠し」という言葉を聞くことはほとんどなくなりました。それは「神隠し」自体がなくなったからではなく、かつてであれば「神隠し」と呼んでいた現象を別の言葉で呼ぶようになったからなのです。誘拐、事故、家出…そして親による子どもの殺害。家出はまだ救いがありますが、他はどれも身も蓋もないような哀しいものばかりです。民俗学者小松和彦先生は、著書『神隠しと日本人』の中で、「神隠しは、真相をも覆い隠してくれるものであった」と述べておられます。子どもが消えた理由を神隠しや妖怪のせいにできるのであれば、「まだどこかで元気でいてくれるかもしれない」とささやかな希望を託すことだってできるのかもしれません。その妖怪がコトリゾでなければ、ということですが。

 

狂骨

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鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』)

「狂骨」
狂骨は井中の白骨なり。世の諺に甚しきことをきやうこつといふも、このうらみのはなはだしきよりいふならん。
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』)

 

 

 狂骨もまた、具体的な伝承が存在しない(もしくは現状発見されていない)妖怪です。神奈川県の津久井郡では、「程度が激しいさま」や「けたたましい様」を意味する「キョーコツ」という方言がありますが、神奈川県において狂骨に関する伝承は残っていないようです。石燕はこの「キョーコツ」という言葉は、「狂骨という妖怪の恨みのはなはだしさからできた言葉であろう」と述べていますが、おそらく実情は、「キョーコツ」という言葉が先にあって、そこから石燕が言葉遊びで創作した妖怪なのではないか、という解釈が一般的です。


 1881年に刊行された鍋田玉英(明治の浮世絵師)の『怪物画本』には、狂骨とほぼ同じ図像をした「つるべ女」なる妖怪が描かれていますが、『怪物画本』自体が「鳥山石燕の妖怪画を模倣した李冠光賢の妖怪画をさらに鍋田玉英が模写したもの」であるため、妖怪伝承の原型を窺い知るための一次資料としては、あまり信用できるものではないようです。『怪物画本』では、一部の妖怪の名称が、なぜか石燕の百鬼夜行シリーズとは意図的に(?)変えられており(たとえば「木魅」は「相生松のせい」、「目競」は「大佛怪物」、「般若」は「葵の上」、といった具合です)、その真意はわかりません。ただ、「葵の上」などは、源氏物語の登場人物であり、六条の御息所の生霊に祟られる役回りです(なぜ「祟る側」の六条の御息所ではなく、「祟られる側」の葵の上が『怪物画本』に描かれているのかは興味深いところです)。「つるべ女」にも原型となった何かしらの伝承があったのでしょうか?

 

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(鍋田玉英『怪物画本』)



 話を狂骨に戻しましょう。妖怪研究家の多田克己先生によれば、狂骨にはたくさんの洒落(掛詞)が含まれているとそうです。たとえば、「髐骨(きょうこつ)」とは、白骨になることを意味します。また、「キョーコツ」という言葉は「素っ頓狂」なことであり、素っ頓狂とは、間が抜けていることも意味します。狂骨は骸骨だから、骨と骨の間がスカスカで間が抜けているため、狂骨の後ろの景色までよく見える(詞書にある「恨みがはなはだしい」と「裏見(うらみ)がはなはだしい」の洒落)ということではないか、さらに狂骨が「井戸に出る妖怪」という点には、「掬いきれない井戸の水」ということから、狂骨が「救われない怨念である」という洒落も読めるのではないか、と多田先生は述べておられます。何にせよ、詞書からも読み取れる通り、狂骨が言葉遊びの要素を多分に含んでいることに疑念の余地はほとんどない、と言えるでしょう。


 狂骨は筆者の大好きな妖怪で(好きな妖怪ばかりじゃないか、と思われるかもしれませんが、実際は「妖怪」という言葉の指し示す範囲があまりにも広すぎるため、妖怪の定義次第では、残念ながらそれほど興味の持てない妖怪もいます)、狂骨に関する何かしらの伝承が残っていないかを調べていた時期があったのですが、成果は上がりませんでした(上がっていればそれは結構な発見なのですが)。一応、2ちゃんねるの「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」のスレッドには「狂骨」なる怪談があります。短い話ですので全文を引用してみましょう。

 

 

喪女は死んでも喪女なんだなぁ、と思った昔話
その昔、福島県には狂骨という妖怪が出たそうだ。
狂骨は歩く女の髑髏であるという
この狂骨であるが、実は名前の響きの禍々しさとは裏腹に、全く悪さをしない。
ただ「歩く髑髏」なのだという
生前はあまりの醜さに誰にも相手されなかったが、死んで骨になってみると意外にスタイルがよかったことに気が付き、死後は自慢のスタイルを自慢するため、夜な夜なカタカタと音を立てながら一人ファッションショーを開催しているのだ
しかしこの狂骨は、高僧とか修験者のような霊的に強い人に出会うと、その場でカタカタと崩れてただの骨になってしまう
そしてその高僧や修験者が通り過ぎると、再びカタカタと人の形を為し、一人ファッションショーを再開するのだという
この狂骨の好物は獣や魚の骨であり、腹が減るとこれをしゃぶるそうだ
しかし、お盆には骨は生臭物であるからといって断食し、骨をしゃぶらなくなるという
そういうわけで人々はこの狂骨を
「なんといじらしく、慎ましい女の物の怪であろうか」
と言って特別嫌わなかったという
喪女は死んでも物の怪になっても、低姿勢で、控えめで、慎ましいのだなぁと妙に感心した昔話

(「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」より「狂骨」)

 

 

 これが実際に伝わっている伝承であれば非常に面白いのですが、残念ながらこの話は、作家の山田野理夫先生の名著『東北怪談の旅』、八十二番に記載された「骨女[青森]」とほとんど同じ内容になっています(青森が福島に変わってはいますが)。『東北怪談の旅』自体が、山田先生の創作を多く含む怪談集なので、ここでもまた、『怪物画本』の「つるべ女」の時と同じように「創作物のさらなる模倣」が行われてしまっているようです。


 狂骨は、深い恨みを抱いて死んでいった怨念のはずですが、なぜか妙にコミカルです。そもそも、石燕の描く狂骨の絵からして、どこかいじられ待ちをしているようなすっとぼけた顔をしており、とても深い恨みを持って死んでいったようには見えません。むしろそういう執着から解き放たれているようにさえ見えます。「はなはだしい恨みを持って死んでいった」にも関わらず、実際に狂骨が害をなすという話がないのは、骸骨になってしまった以上、生前の恨みなどもうどうでもよくなっているからなのかもしれません。洋の東西を問わず、骸骨というもの自体が、陽気でお気楽な存在として描かれる事が多いですが、それは煩悩の元である「肉体」が朽ちているからではないでしょうか(あらゆる欲情は肉体が無ければ湧いてきません)。

 

 多田先生は石燕はこう言いたかったのではないか、と言います。「肉体への執着こそが悟りを妨げるのであるなら、骸骨は肉体がないから、二重の意味で仏(悟った者と死体という意味)なのではないか」と。