百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

不落不落

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鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

「不々落々」
山田もる提灯の火とは見ゆれども、まことは蘭ぎくにかくれすむ狐火なるべしと、ゆめのうちにおもひぬ。
鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

 提灯お化けと言えば、一つ目小僧や唐傘お化けと並んで非常にポピュラーなお化けですが、実は具体的な伝承や文献はほとんど見つかっていません。不落不落(ぶらぶら)もそのような提灯お化けの一種なのでしょうか(『百器徒然袋』では、「ぶらぶら」の表記に揺れがあり、「不々落々」「不落々々」などと書かれています。前者であれば「ぶぶらら」になってしまうため、基本的には「不落々々」「不落不落」と表記されることが多い印象です)。


 不落不落は文車妖妃と同じく、『百器徒然袋』に描かれた妖怪であり、やはり石燕の創作である可能性が高い妖怪です(ちなみに、筆者が個人的に最も愛する妖怪はハンドルネームでもある「飛縁魔」なのですが、この不落不落もそれに劣らず好きな妖怪です)。まずは詞書を見ていきましょう。「山田もる」とは「山田守る」、つまり山の田を守る案山子(かかし)につく枕詞のようなものです。よって「山田もる提灯の火」とは、案山子のように田んぼに立てられた提灯の明かりのことなのでしょう。詞書を簡単に現代語に訳すると「山田に灯った提灯の火には見えるけれども、実は蘭菊の間に隠れた狐火なのではないだろうかと、夢の中で思った」という内容で、そのまま解釈するのであれば、「提灯の火だとは思うけど、あれ狐火かもな(だったらいいな)」という程度のもはや石燕の感想でしかない妖怪ということになります(このあたりの切なさも不落不落の魅力の一つです)。

 

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鳥山石燕画図百鬼夜行』より「狐火」)

 江戸郊外の王子では、毎年大晦日に江戸じゅうの狐が集まって無数の火を灯すという俗信がありました。里の人々はその炎の流れを見て農作物の豊凶を占ったそうです。冬の夜をスクリーンにして無数の火が揺らめくその光景はとても美しく、幻想的であったことでしょう。狐火には「狐が口から吐いた火である」という説、「狐が咥えた馬の骨を打合せて出した火である」という説(上の画像でも狐が骨を咥えています)、「リン」説、「英語のfox fire(枯れ木に発生した菌類が発する微光)を普通に直訳してしまった」説など、様々なものがありますが、実際のところその正体や起源についてはよくわかっていません。


 電気が存在せず、蝋燭や油も貴重品であった江戸時代。現代とは異なりその夜闇は真の漆黒でした。そして、山間部であればなおさらであったしょう。たとえそれが狐火などではなくとも、そんな漆黒の世界に揺らめく炎は、やはり哀しく幻想的で、人々に様々な感懐を呼び起こすものであったことは想像に難くありません。迷い出た魂を想起させるそれに喚び起こされる感情は、ある種の恐怖かもしれませんし、死者に対する郷愁なのかもしれません。不落不落はそんな炎に対するある種の憧憬を伴った感情そのものなのではないでしょうか。


 「不」とは「~ではない」ということ。もしくは「よくない、悪い」ということ。「落」とは「落下する」こと、「敗れる」こと、「ぬけおちる」こと、「きまりがつく」こと(話のオチ)、「手に入れる」こと(落札など)、物事にこだわらない」こと(豪放磊落など)、「さびしい」こと(落莫など)。不落不落は彷徨う炎であり、死者の魂なのでいつまでも「きまりがつかず(成仏できず)」「この世へのこだわり(執着)を断ち切れず」、ただぶらぶらと落ちることなく漂っているのかもしれません。


 不落不落に関する伝承は、現在見つかっておらず(もちろん筆者が知らないだけの可能性もあります)、やはり石燕の創作(というより感想)であると思われます。水木しげる先生の『日本妖怪大全』におけるに不落不落の項には、通称「竹寺」と呼ばれる京都の古寺に出た提灯の怪火の話が記載されています。その寺では新仏が運ばれてくるたびに、夜の竹林の奥に提灯のような怪火が燃え上がり、微かに揺らめくといいます。しかし、この『日本妖怪大全』にはこの話の出典が明記されておらず、先生が何かしらの文献を御参考にされたのか、口碑伝承を御参考にされたのか定かではありません。また、何より水木先生自身もこの怪火を、特に不落不落と同一視されているわけではありません。しかし、このようなどこか美しく、懐かしいこの話を不落不落の項に記載された水木先生の感性にはただひたすら敬服するばかりです。そうした美しさや郷愁を掻き立てる哀しさこそが不落不落の本質であると筆者は思うからです。

 

文車妖妃

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鳥山石燕『画図百器徒然袋』

「文車妖妃」
歌に、古への文見し人のたまれやおもへばあかぬ白魚となりけり。かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし。まして執着のおもひをこめし千束の玉草には、かかるあやしきかたちをもあらはしぬべしと、夢の中におもひぬ。
鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

 

 文車妖妃(ふぐるまようひ)は鳥山石燕の『画図百器徒然袋』に描かれた妖怪です。実際に伝承が存在する妖怪が多く描かれた『画図百鬼夜行』などとは異なり、『画図百器徒然袋』は基本的に石燕の創作した妖怪たちが描かれていると言われています(『画図百器徒然袋』に描かれた妖怪画の詞書は、「夢の中におもひぬ」や「夢のうちにおもいひぬ」で終わっており、それらの妖怪が石燕の想像したものであることが示唆されています)。しかし、それらは完全な創作ばかりというわけでもなく、元になった古典や説話が存在します。


 たとえば、『諸国百物語』のなかには、「艶書の執心、鬼と成りし事」という話があります。ある寺に美しい稚児がいて、彼の元に恋文が届きましたが、彼はそれらの恋文を縁の下に捨て続けていました。するといつしか縁の下に捨てられていた恋文に宿った執念が火となり鬼となり、寺を訪れる人々を襲い、稚児の懐へと入った、というのです。また、兼好法師の『徒然草』の第七十二段には、「賤しいものは不必要に物の数の多いことである。しかし、多くて賤しからぬは、文車の中の書物、塵塚(ごみ捨て場)の塵である」という内容の記載があります。石燕がこの記述を参考に文車妖妃をデザインしたことは間違いなく、「賤しからぬもの、ということは高貴なものなのだろう」と洒落て、文車妖妃に貴族女性のような服装をさせているわけです(また、『百器徒然袋』では、文車妖妃の直前に塵塚怪王という妖怪が描かれており、「塵塚の塵」を高貴な存在である「王」として描いています)。


 それでは、文車妖妃の詞書について解説していきましょう。まず、文車とは書籍や手紙を収納して運ぶ、板張りで屋形付きの小車です。詞書のはじめには、「歌に、古への文見し人のたまれやおもへばあかぬ白魚となりけり。かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし」とあります。妖怪研究家の多田克己先生によれば、ここでいう「古への文見し人」とは日本に『論語』や『千字文』を伝えた王仁(わに)のことであるそうです。また、白魚(しみ)とは、本を食べる虫のことであり、本ばかり読んでいる人を指す「本の虫」の語源にもなっています。石燕は「古の読書人である王仁の書物や、尊い僧の手紙や経典でさえも、汚い虫食いの状態になってしまう」、つまり「どれだけ素晴らしい内容の書物であっても、時が経てば汚れたものへと転じてしまうこと」を言っているわけです。ありがたい経典でさえ、そうなってしまうのですから、「執着のおもひを込めし千束の玉草(無数の手紙のこと)」は、どれほど怪しいものへと転じてしまうのでしょうか。特に恋文には報われなかった数多の妄念が込められています。行き場を失い、幾重にも積み重なった手紙に込められた想念は、やがて怪をなしても不思議はない…そうした石燕の想像から生まれた妖怪がこの文車妖妃なのです。


 さて、私事ですが筆者は古典的な妖怪や、地方に伝わる古い伝承・怪談を愛している一方で、現代社会で語られる怪談もまた収集しています(学生時代はひっそりと民俗採集の旅に出かけることがささやかな楽しみでした)。すると、否が応にもある場所を舞台とした怪談が非常に多いことに気付かされます。それはSNSに代表される電子空間です。「SNSであった怖い話」というのは、もはや一つのジャンルとして確立されているほどです。文化的な話になりますが、怪談というものは(正確にいえば「広く語られている」怪談というものは)、基本的にその時代の社会や文化を反映するものです。ひと昔前までは「トイレにまつわる怪談」は学校の怪談のスタンダードとしてよく語られていましたが、最近ではめっきり語られることはなくなってしまいました。その最大の理由は、現代に生きる我々が「トイレという場所に恐怖感を覚えなくなった」からです。昔のトイレは暗く、非常に不気味な場所でした。汲み取り式のトイレに至っては、強烈な悪臭の立ち上がる真っ黒な穴がぽっかりと開いていて、そんなおぞましい穴に向かって下半身を露出し、暫くの間無防備な姿勢を取らなくてはならないのです。よって、トイレに対する不気味さや嫌悪感は、多くの人々(主に学校の怪談の語り手であった子どもたち)に共有されている感情であり、それゆえにこそ「トイレの怪談」はある種の共感を伴う恐怖として多くの学校で流布し、子どもたちの口の端に上ってきたのです。しかし、現在はどうでしょう。ほとんどのトイレは水洗で、明るく清潔です。むしろトイレの個室を「憩いの場」と感じ、休憩時間はトイレで時間を潰す人さえ多い時代になっています。そんな時代において、トイレの怪談は(たとえそれが事実であったとしても)かつてほど人々の共感を得ることができず、結果的に広く語られることはなくなっていったのです。


 しかし、現在、SNSにまつわる怪談が実に広く語られています(SNS怪談は幽霊などが登場する超常的な恐怖よりも、人間によって引き起こされる恐怖、いわゆる「ヒトコワ」系の怪談が主題になりがちなことも見逃せません)。これは多くの人々が、SNSというシステムが持つ不気味さに潜在的な恐怖を覚えていることを示唆しており、筆者としてはむしろ健全なことのようにさえ思えます。しかし、そうした潜在的な恐怖が我々をSNSの呪縛から解き放ってくれるほどの力を持っていないこともまた事実です。


 令和の世に生きる我々は、手紙で思いを伝えあうことはほとんどありません。私たちは手紙ではなくSNSで思いを伝えます。好きな異性への気持ちをLINEに乗せて発信し、ドロドロした感情や自己顕示欲をTwitterで発散し、承認欲求をInstagramで満たします。現代人の執心は、手紙を山積みにした文車にではなく、電脳世界にこそ蓄積しているのです。文車妖妃は、活動場所を電脳空間に変え、新たな怪異を引き起こし続けているのかもしれません。

 

 

すねこすり

「スネコスリ」
犬の形をして、雨の降る晩に、道行人の足の間をこすって通るという怪物(備中小田)
柳田国男『妖怪名彙』)

 

 

 一週間ぶりの更新です。自粛期間中にも関わらず、利き手を負傷してしまってキーボードが満足に打てず(今もそれほど打てません)、記事の更新が滞っていましたが、また少しずつ更新していこうと思います。


 さて、今回ご紹介する妖怪は「スネコスリ」という妖怪です。水木先生のイラストでは、まるまると太った非常に可愛らしい猫のような姿に描かれているため、スネコスリを猫の妖怪と考えていらした方も多いかもしれませんが、実際は「犬の形」をしています。


 というより、『妖怪名彙』の説明を文字通り受け止めるなら、何も不思議なことは起こっておらず、「それ、普通の犬か狸じゃない?」と思った読者の方も多いかもしれません(筆者もそう思います)。スネコスリは「歩行を妨害する怪」であり、類似の怪異として「アシマガリ」と言われるものがあります。

 

「アシマガリ
狸のしわざだという。正体を見せず、綿のようなものを往来の人の足にからみつけて、苦しめることがあるといっている(讃岐高松叢誌)。
柳田国男『妖怪名彙』)

 

 こちらはスネコスリに比べて若干怪異性が増していますが、やはり正体は狸のようです。また、スネコスリを「人の股の間を潜り抜ける怪」と考えるのなら鹿児島や宮古島に伝わる片耳豚(かたきらうわ)との類似も見出せます。片耳豚は、人の股の間を潜り抜ける妖怪で、これに潜られた人は性的に不能となったり、魂を抜かれたりするともいわれます(片耳豚に関しては、筆者も実地に赴き調査をしたことがあるのですが、非常に長くなるため本項での詳説は避けます)。しかし、スネコスリはこうした片耳豚とも異なり、特に人に害を与えるわけでもないようです。ますますただなついて寄ってきただけの犬(もしくは狸)である可能性が濃厚になってきました。


 では、どうしてスネコスリは妖怪として認知されているのでしょうか。これはやはり静か餅の項でも述べたように「それを怪異と解釈した人がいた」からです。


 少し回り道をしましょう。先日、アメリカの国防総省がUFOの動画を公開し、話題になりました。このニュースにより、「ついにアメリカが宇宙人の存在を認めた!」と一部では盛り上がりをみせましたが、それは違います。


 UFOとは、「Unidentified flying object」の略称で、単に「未確認飛行物体」という意味です。そして未確認かどうか、は観測者側の知識や判断に依存します。よって、(たとえそれが鳥だろうが飛行機だろうがビニール袋だろうがイッタンモメンだろうが)観測者にとって正体がわからない飛行物体は全てUFOなのです。逆に、それが本物のエイリアンクラフト(宇宙人が乗っている乗り物)だったとしても、それを目撃した人が「あ、飛行機だ」と特に気にもとめずに流してしまったとすれば、それはUFOではなくなってしまいます。それゆえ、UFOとは、「(観測者にとって)現状正体不明の飛行物体」という以上の意味はなく、アメリカの公開したUFO動画騒動は、「アメリカの力をもってしても正体を特定できない飛行物体が撮影されることがある」という事実を認めただけであり、「アメリカがエイリアンクラフトの存在を認めた」わけではないのです。


 スネコスリもこれと同じと思われます。たとえば、スネコスリにあった人は、犬を見たことはあったけれども狸を見たことがなかったのかもしれません。そんな人が初めて狸にすり寄られたとしたらどうなるでしょうか。彼(彼女)はそれを「犬のような何か」と形容するしかない。けれども犬ではないことも間違いない。そうなると狸と遭遇した経験は彼(彼女)の中で「不思議な経験」として記憶されるわけです。


 怪異にせよUFOにせよ、そう認定されるかどうかは観測者自身の判断や解釈に依存します。どれだけ当たり前のことであっても、観測者がそれを不思議と思えばそれは怪異なのです。逆に、どれだけ奇怪で不気味な現象であっても(本当にこの世ならざる者や宇宙人の介入があったとしても)、観測者がそれに気づかなかったり、幻覚として黙殺してしまうのであれば、それは怪異ではありません。筆者が度々引用させて頂いている『日本現代怪異事典』の著者、朝里樹先生もおっしゃるように「怪異は人の心に余裕があるときにしか出てこれない」のです。余裕のない世界においては、どんな奇妙なできごとも、差し迫った目前の必要性に押しつぶされ、「怪異に成る」ことはできないのです。筆者としては今回のコロナ騒動でただでさえ隅に追いやられた妖怪達が絶滅しないよう、そっと願うばかりです

 

 

コトリバコ【参】

「コトリバコ」
箱の作り方を教えた男は箱の管理の仕方を残し、ハッカイを持って去っていった。その方法とは、女子どもを近づけないこと、必ず暗く湿った場所に安置すること、箱の力は年を経るごとに弱くなっていくこと、もし必要なくなった場合は、寺では絶対に処理はできないため、ある神を祭る神社に処理を頼むこと、というものだった。
(朝里樹『日本現代怪異事典』)

 

*この記事は前々回の「コトリバコ【壱】」、前回の「コトリバコ【弐】」の続きとなっています。未読の方はまずそちらを先にご覧ください。

 

⑤コトリバコを処理できるMの神社はどこで、何という神を祀っているのか。

 さて、三度目となるコトリバコの考察記事です。今回の記事でいよいよコトリバコの考察は完結を迎えることとなります。最後の考察は本文中に登場するMの神社が一体どこであるのか、です。原話から神社特定につながる記述を引用していきましょう。

 

 

「それでT(S家の前任者の跡取り)と相談したんです。
もしかしたらS父は何も知らないのかもしらない、箱から逃げられるかもしれないと。
そしてまず、S父に箱のことをそれとなく聞き、何も知らされていないことを確認しました。
そして納屋の監視は続け、S家に箱を置いたままにしておくこと
Tは札の貼り替えをした後、しばらくして引っ越すこと(松江に行ったらしいです)
そうすれば、他班からは「あそこは終わったんだな」と思ってもらえるかもしれないから」

 

 

 まず筆者が最も気になったのはこのセリフのなかにある「(松江に行ったらしいです)」という語り手の補足書です。もし語り手が松江市に住んでいるのであれば、誰かの引っ越し先を告げる際、「松江に行ったらしい」という言い方はまずしないと思われるからです。たとえば、自分が名古屋市に住んでいるとして、同じく名古屋市に住んでいる人物が、「同じ名古屋市内で」引っ越しをした場合、「あの人は引っ越して名古屋に行ったらしいよ」などという言い方をすることはありえせん。そして、本文冒頭で「Mの神社は語り手の住む地域にある」ということが明言されていますから、「語り手の住む地域=Mの神社がある地域」と考えて間違いないでしょう。よって、語り手が松江に住んでいないことがほぼ確実である以上、Mの神社の候補地として、松江市にある神社は全て除外して問題ないと思われます。


 さらにAAは隠岐からMの神社がある地域の周辺に逃げてきた、ということになっています。それゆえMの神社がある地域は内陸部ではなく、海に面した地域である可能性が非常に高いと言えます。よってMの神社がある地域は、海に面している「出雲市」「大田市」「江津市」「浜田市」「益田市」のどれか、と考えるのが妥当であると思われます。さらに隠岐からの距離を考えた場合、その中で隠岐から最も近い「出雲市」が、語り手たちの住む地域である可能性が一番高いと思われます。次に気になった個所を引いてみましょう。

 

 

「そいつん家は俺らの住んでるところでもけっこう大きめの神社の神主さんの仕事を代々やってて、普段は普通の仕事してるんだけど、正月とか神事がある時とか、ケコーン式とかあると、あの神主スタイルで拝むっていうのかな?
そういった副業(本業かも)をやってるようなお家。
普段は神社の近くにある住居にすんでます。」

 

 

 上記の描写ではMの神社が「けっこう大きな神社」であることが明記されています(神主が結婚式に派遣されることがあるくらいですから、それなりに大きいのでしょう)。しかし、コトリバコの話全体の様子からも明らかなように、出雲大社伊勢神宮クラスの超有名神社というわけでもなさそうです。そして何より、コトリバコを祓うことができる唯一の神様が祭られている、というのが最大の手がかりかもしれません。


 それではここまでの内容を整理してみましょう。Mの神社は「松江市以外(おそらく出雲市)」にある「けっこう大きな神社」であり、「コトリバコ(間引かれた子どもの体を使った呪物)を鎮めることができる神様を祭っている神社」です。これらの要素を満たす神社は、少なくとも筆者の知る限りではたった一つしかありません。


 それは島根県出雲市にある御井(みい)神社です。御井神社とは安産祈願で有名な神社であり、日本でも非常に珍しい「ある神様」を主祭神として祭っている神社なのです。その神様は、名を木俣神(このまたのかみ)と言います。木俣神とは、大国主命八上比売(やがみひめ)の間にできた神でしたが、八上比売は、大国主命の正妻である須勢理毘売(すせりびめ)の怒りを買うことを恐れ、生まれたばかりの木俣神を文字通り「木の股の間に」捨ててしまいます。つまり木俣神は「間引かれた子どもの神」であり、「コトリバコの素材となった子供たち」と全く同じ境遇にあった神なのです。「木の股に捨てられる」というところも、「木箱に詰められる」という点とイメージ的な相同性があります。それゆえ、コトリバコを鎮めることができるのは、コトリバコの素材にされてしまった子どもたちと同じ境遇にあった木俣神が最も適任なのです(もちろん、筆者のこの考察は間違っているかもしれません。それらしく書いていますが、当然ながら証拠はありませんし、そもそもコトリバコの話自体が創作である可能性が非常に高い怪談です。しかし、たとえ創作であったにせよ、投稿者が御井神社の木俣神の伝承から、コトリバコの怪談を作り上げた可能性はあると思っています)。それでは、最後にここまでの考察をまとめたいと思います。


 まずコトリバコは大陸呪術の影響を受けながらも、日本古来からある神道の「触穢思想」をベースに作られた呪物であり、その原型は鎌倉時代陰陽師、賀茂在継が後鳥羽上皇に伝えたものでした。そして承久の乱で敗れ、隠岐に流された後鳥羽院は、自分の周囲にいたごく近しい者にだけ、コトリバコの原型となった呪法を伝えました。そして時は流れ1868年。隠岐騒動が勃発し、後鳥羽院からコトリバコの呪法を授かった者の子孫であるAAなる人物が隠岐を脱走し、現在の出雲市内にある、とある村落へたどり着きました。


 その部落は酷い迫害を受けており、AAは自分の命を助ける代わりにコトリバコの呪法を村人に伝えます。間引かれた子どもの怨嗟と、穢れを原動力としたその呪物は、単なる仏式では対処できず、たとえ神式であっても精々穢れを祓うことができず、間引かれた子ども達の無念を晴らすことまではできませんでした。よって、コトリバコを鎮めることができるのは、単に穢れを祓えるだけでなく、安産の神であり、間引かれた子どもの神でもある木俣神主祭神とする御井神社だけだったのです。


 さて、コトリバコの考察はこれでおしまいです。もちろん、他にもまだ多くの謎が残っています(AAやハッカイはどこに行ったのか、AAはハッカイをどうしたのか、ハッカイの素材として殺された八人の子どもの名前は何であり、なぜそれを語り手たちは知っていたのか、など)。しかし、それらの考察は他の方々にお任せしたいと思います。


 一番はじめにお断りしたように、筆者はコトリバコを創作であると信じています。いや、正確に言えばコトリバコで語られたエピソード自体は本当にあった話を元にしているのかもしれません(正直その可能性はあると思っています)。その理由は、コトリバコの本編全体を通じて、語り手が実際に経験した場面に限れば、実は一切超自然的なことは起こっていないからです(結局Sの家族も誰も死んでいません)。しかし、仮に実話であったとして、コトリバコなる呪物が、実際に超自然的な力を持っているということに関しては「絶対にありえない」と思っています(「呪いで内臓が千切れる」などというような馬鹿馬鹿しいことが現実に起きるはずがありません)。


 そもそも幽霊や(超自然的な意味での)呪いなどというものは、「この世に物理的な干渉を行わない」という前提があるからこそ、その存在の可能性を担保されています。仮に霊的なものが物理現象に影響を与えるのであれば、それは霊性を剥奪された「単なる物理的な存在」になり下がってしまい、物理的・科学的に観測可能なものである、ということになってしまうのです。

 

 霊というものは「この世のもの」ではありません。否、あってはならないのです。よってもし仮に霊的なものが本当に存在するとしても(筆者自身は霊の存在に関しては否定も肯定もしません)、それはこの物質世界の理とは違った理の中に存在するものなのです。だから、それらが「人間の心」という非物質的なものや、「運」などといった物理現象に還元できないものに対して影響力を持つことはできたとしても、「人間の内臓を直に物理的にねじ切る」などというように、直接的な物理世界への干渉ができるはずはないのです(むしろ宗教学的に考えれば「できるとマズイ」のです)。幼い頃から怪談や妖怪を愛するものとして(そして何より宗教者の端くれとして)、これだけは断言していいと思っています。


 しかしたとえ創作であるにせよ、コトリバコが非常によくできた怪談であることは変わりありません。おそらくこの怪談は今後も多くの興味深い考察や、優れた二次創作怪談を生んでいくでしょう。また、この現実世界において、書物やネットには載っていない習俗や祭祀、呪法が無数に存在することは紛れもない事実です。コトリバコはそうした我々の知らない世界の片鱗を垣間見せてくれるという点においても、非常に素晴らしい怪談と言えるでしょう。最後に、卒業論文並みの分量になってしまったこれらの考察をお読みくださった読者の方々に、心よりの感謝を申し上げます。

 

コトリバコ【弐】

「コトリバコ」
その方法はまず最初に複雑に合わさった木の箱を作り、その中身を雌の家畜の血で満たして一週間置き、そして血が乾き切らないうちに蓋をする。それから部落で間引いた子どもの体の一部を入れるが、年齢によって入れる部位が異なる。生まれたばかりの赤子はへその緒と人差し指の第一関節部分までを、七歳までの子どもは人差し指の先とはらわたを絞った血を、一〇歳までの子どもは人差し指の先を入れ、蓋をする。
(朝里樹『現代日本怪異事典』)

 

*この記事は前回の「コトリバコ【壱】」の続きとなっています。未読の方はまずそちらを先にご覧ください。

 

③コトリバコの作り方は何を意味するのか。

 さて、今回の記事ではコトリバコの作成方法に関する謎を考察していきましょう。コトリバコについて検索すると、多くのサイトで、「これは蠱毒(こどく)の一種である」というような考察がなされているのを目にします。また、コトリバコに限らず、呪術系の話に関する考察では、必ずといっていいほど蠱毒と結びつけようとするものが多く見られます。原話の本文内には「*箱の作り方、全部載せるとさすがにやばそうなのでいくつか省きますね」と明記されているため、コトリバコに蠱毒の影響がない、と断言することはできませんが、少なくとも本文中に記載されている情報のみを参照するのであれば、コトリバコはほぼ間違いなく蠱毒の一種などではないと思われます。そもそも正確な呪術の作法というものは徹底的に秘匿されねばならないものであり、一般に浸透することはあってはならないのです。それゆえに、「呪い」といった場合、一般的に認知されている(もちろんオカルト好きの人々一般に、という意味です)数少ない呪法である蠱毒が担ぎ出されることになってしまうのだと思われます。ちなみに蠱毒とは、古代中国より伝わる呪法であり、本邦でも律令制においては天皇の殺害や、国家に対する反逆と同じく、「八虐」の一つに数えられる重罪に規定されていました。律令の解説書である『名例律』には蠱毒について次のように書かれています。

 

 

「蠱に多種ありて、備に知るべからざる。あるいは諸蠱を集め合せて、之を一器の内に置き、久しく相食ませ、諸蠱皆悉く尽き、若し蛇あれば蛇蠱として為すの類なり。

 

 

 要するに蛇や犬、蝦蟇や百足などを一つの容器に閉じ込めて放置し共食いをさせ、生き残ったものを呪術に用いる、という呪法です。具体的な作法は当然一般に伝わっておりませんが、『本草綱目』には、生き残った動物を殺し、干して焼いた灰を呪うべき相手に飲ませる、という旨の記載があります。たしかに「一つの容器に閉じ込める」という点から、「容器=箱」という連想を導くことは容易ですし、そこからコトリバコとの相関性を見出せないとはいえません。また「多くの虫や動物を一つの容器に閉じ込める」蠱毒と、「何人もの子供の死体の一部を一つの箱に入れる」というコトリバコのやり方は、似ていないとも言えません。しかし、コトリバコは蠱毒のように子供たちを閉じ込めて殺し合わせるわけではありませんし、何よりコトリバコでは蠱毒にはない「血」という要素が重要なファクターを占めています。また、蠱毒は確かに呪術ではありますが、結局「生き残った一匹の灰を飲ませる」ということから毒殺の一種であった、とも考えられます。「禍々しい生き物たちを殺し合わせ、生き残ったものこそが最強の毒性を持った生物になるはずである」という、(あくまで当時の人々からすれば)合理的な理由に基づく毒殺方法であった、とも考えられます。よって、「コトリバコに蠱毒の影響が皆無である」とまでは言いませんが、「コトリバコが蠱毒の一種である」という解釈や、「コトリバコは蠱毒を元に考え出された呪法である」という解釈にはさすがに無理があると言わざるを得ません。


 さて、それでは、コトリバコは一体何をベースとした呪術なのでしょうか。この問いに関しては、神道における「触穢(しょくえ)思想」である、と断言してほぼ間違いないように思います。触穢思想とは何か、と言えば簡単に言うと「穢れは伝染する」という思想です。神道においては、「死・出産・月経(経血)」は、「最も穢れたモノ」として忌避されてきました。それゆえ、これらに触れたものは、一定期間の謹慎が要求されていたのです。


 ここでコトリバコに入れるものをもう一度振り返ってみましょう。第一に「雌の家畜の血」です。これはおそらく「経血」の代理であると考えられます(本物の経血を使わないのは、箱一杯を満たすほどの経血の入手が困難だったからかと思われます。もしくは、死血を用いることで、より穢れを強めようとしたのかもしれません)。次にへその緒ですが、これは間違いなく「出産」の穢れでしょう。最後に、間引かれた子どもの血と指先ですが、これは「死者の一部」であり、「死」の穢れそのものです。つまり、コトリバコには、神道で最も忌み嫌われる三つの穢れの全てが閉じ込められており、箱に封じ込めたそれらの穢れを感染力を利用し、女子供を呪い殺す呪物だったのです。


 この触穢思想がコトリバコのベースにあると考えれば、実はコトリバコに関するほとんどの謎が氷解します。たとえば原話の本文中に次のような記述があります。

 

 

「そして箱の中身は、年を経るごとに次第に弱くなっていくということ
もし必要なくなった、もしくは手に余るようなら、○を祭る神社に処理を頼むこと
寺ではダメ、必ず処分は○を祭る神社であること」

 

 

 触穢思想はのちに陰陽道に取り込まれていきますが、元は神道の考えであり、仏教の考えではありません(仏教における穢れは邪念や罪悪といったカルマに悪影響を与える行為や意思であり、伝染するものではありません)。だから、コトリバコは神社でしか処理できず、寺では対処できないのです。また、穢れは時間を置けば弱まる、という特性があります。たとえば死穢であれば30日、産穢であれば7日、という風に、一定期間で穢れは消える(もしくは感染しない程度には弱まる)と考えられていました。コトリバコがいくら強力な呪物だといっても、「穢れ」を用いたものである以上、時間を置けばその威力や感染力は弱まってしまうのです。だから、原話において、Mの恋人であるKは、女性であるにも関わらず、コトリバコに触っても「その時間が短かったから」という(それだけを見れば些か納得のいかいない)理由で何も起きなかったのです。これは、長い時間を経て、コトリバコにある穢れの感染力弱まっていた証拠なのです。次に本文中のこの描写をご覧ください。

 

 

「そしてあの箱は3家持ち回りで保管し、家主の死後、次の役回りの家の家主が葬儀後、前任者の跡取りから受け取り、受取った家主がまた死ぬまで保管し、また次へ、次へと繰り返す。受取った家主は、跡取りに箱のことを伝える。跡取りが居ない場合は、跡取りが出来た後伝える。どうしても跡取りに恵まれなかった場合、次の持ち回りの家に渡す。他の班でも同じです。3家だったり4世帯だったりしますが。」

 


 平安時代、穢れのモデルは次のように考えられていました。たとえばAの家で死人が出た場合、その穢れはAの家族全体に感染します。そしてAの家を訪れたBにも感染し、Bがその穢れを持ち帰ったBの家族全体にも感染します。さらに、Bの家族を訪れたCにも感染しますが、Cが穢れを持ち帰ってもCの家族にはもう感染しません。そして、Cの家を訪れた人物には穢れが感染することはもうありません。つまり、穢れの伝染は三件目で止まり、四件目には完全に消えてしまうのです。コトリバコを三~四件の家で回して管理するのはその名残であると思われます(ちなみにこの触穢思想は、小野不由美先生の『残穢(ざんえ)』という小説にも少しだけ登場します。それゆえ、「コトリバコの投稿者は、もしかすると「残穢」を読み、それを元にコトリバコを創作したのではないか」という可能性を考えた方もいるかもしれませんが、「コトリバコ」は2005年に投稿された話であり、『残穢』の発表は2012年ですので、その可能性はまずありえないでしょう)。


 また、コトリバコに入れる子供の数は七までにすべきであり、八以上は危険とされています。それは、いくつかの考察サイト等でも言及されているように、本邦では「八」という数が単純に「多い」という意味を表す数字だから、で間違いないでしょう。たとえば「八百万の神」の「八百万」は文字通りの数字としての八百万を意味するのではなく、多数のという意味になりますし、「八千代」は「悠久の年月」を表します。つまり、「八」になった瞬間、呪いの威力が跳ね上がる、と信じられていたのでしょう。このように「八」という数字を特別視している辺りにも、コトリバコがやはり日本的な神道の思想をベースにしていることが伺えます。もちろん、「複雑な組木の箱」を用いるあたり等、大陸呪術の影響も見えますが、やはり根本には神道の触穢思想があると思えてなりません。つまり、コトリバコとは、神道の「触穢」の観念をベースに、陰陽道が秘匿していた大陸由来の呪法を組み合わせてつくられた呪物なのです。


 しかし、神道に造詣のある方であれば、「コトリバコが神道の思想をベースにした呪術である」という説に対して、違和感を覚えるかもしれません。なぜなら、MはSの口に自らの血を流し込むという手段を用いてSを救おうとする描写があるからです。前述したように神道において血は穢れですから「血を以て解呪を行う」ということは考えられません。しかし、あの行為は恐らく解呪ではありません。コトリバコは「子どもを産める女性」と「子ども」のみを呪うために作られた呪物でした。「成人男性」には何の効果もありません。つまり、女性であるSに成人男性であるMの血を飲ませることにより、Sの女性性を一時的に薄めようとしたのではないでしょうか。そうすることで、コトリバコの呪いの方向をSから逸らそうとしたのです。お祓いの最中、危険なはずのコトリバコをMがずっと離さなかった理由は、自分の血が注がれたSと、成人男性であるMに同じ血が流れていることをコトリバコに伝える(?)ことで、呪いが改めてSの方へと向かないようにしていたからではないでしょうか。


 またもや膨大な字数になってきましたので、そろそろ筆を置きたいと思います。しかし、その前に四番目の謎である「チッポウやハッカイにはどのような漢字を当てるのか」についてだけは結論を出しておきたいと思います。

 

④「チッポウ」や「ハッカイ」にはどのような漢字を当てるのか。

 これは「コトリバコ」の本文中にもあったように「イッポウからチッポウ」までは「一封から七封」、「ハッカイ」は「八開」でほぼ間違いないように思います。なぜ七までは「封」で八だけが「開」なのかといえば、箱の力により人の手で呪いを制御可能にできるのが七までだからです。先述したように、本邦では八という数字は「多数の」という意味を持ち、七と八の間には明確な断絶があります。つまり、七つまでであれば、複雑な箱によって呪いが暴走することを防ぎ、人の手で制御できる(つまり「封じる」ことができる)けれど、八以降になれば呪いが暴走してしまう(箱では「封じ」られず、「開放」されてしまう)と信じられていた、ということではないでしょうか。もしくは「八以上は作るな」という「戒め」の意味を込めて「八戒」なのかもしれません(ちなみにこの当て字に関する考察に関しては、同じような考察を述べていらっしゃる方々も多数おり、特に筆者のオリジナルというわけではないことをここに明記しておきます)。
 

 さて、いよいよ次回で完結です。次回はコトリバコ最後にして最大の謎である「Mの神社」と「その神社が祀る神様」について考察していきたいと思います。

 

コトリバコ【壱】

「コトリバコ」
島根県のある地域に伝わるという怪異で、木が複雑に組み合わさってできた二〇センチ四方ほどの大きさの木箱という様相をしている。本来は「子取り箱」と書く物体で、その正体は呪い殺すために作られた一種の武器だという。この箱が近くにあるだけで、女性や子どもは次第に内臓が千切れていくという恐ろしい形で殺されることになる。
(朝里樹『日本現代怪異事典』)

 

 

(注意:今回はいつもの簡単な妖怪紹介・考察記事とは異なり、2ちゃんねるの怪談「コトリバコ」を、「あくまで実際にあった話」として考察したものになります。相当な分量になるので記事が一度で完結しない上、「コトリバコ」本編を読んでいない方にはほとんど理解できない内容となっています(もちろん、必要に応じて引用・解説を行いますが、それでも限界があります)。なのでもし「コトリバコ」本編を読んでいない方がいらっしゃれば、先にそちらをお読みくださるようお願いします。また便宜上、記事内では「コトリバコ」の怪談を「全て実話」として扱っておりますが、筆者自身、この怪談は創作であると信じていることを予めお断りしておきます。)

 

『コトリバコ』本編(「恐怖の泉」様)
https://恐怖の泉.com/kaidan/4wa.html

 

 「コトリバコ」は2ちゃんねるオカルト板『死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?99』スレッドに2005年6月6日に書かれたものが初出と思われる長編怪談です。非常に有名な怪談であり、現在に至るまで様々な媒体で語り継がれ、いくつもの二次創作が派生し、多くのサイトで考察がなされています。「コトリバコ」の内容全てを詳説していくと途方もない分量になってしまうため、今回の記事は読者の皆様が全員「コトリバコの本編を一読している」という前提で進めさせていただくことを先にお詫び申し上げます。


 さて、コトリバコは最後まで読んでも解明されないいくつもの謎が残っています。初めに本考察において登場する主要な人物と、本文中における特に大きな謎を列記していきたいと思います。

 

・語り手…投稿者。コトリバコを伝えたAAと同じ姓を持つ。三十歳手前の男性。

・M…この物語の主役である男性。語り手の友人。実家がとある神社を営んでいる。

・S…家の納屋でコトリバコを発見した女性。語り手やMの友人

・K…Mの彼女。

・AA…1860年代後半に隠岐から脱出し、コトリバコの作り方を教えた男性。

 

①1860年代に隠岐であった反乱とは何か。
②AAは何者で、何故コトリバコの作り方を知っていたのか。
③コトリバコの作り方は何を意味するのか。
④「チッポウ」や「ハッカイ」にはどのような漢字を当てるのか。
⑤コトリバコを処理できるMの神社はどこで、何という神を祀っているのか。

 

 他にも細かい疑問や不可解な部分は無数にありますが、当ブログではこの五点に関しての考察を進めていきたいと思います。細かな疑問の大半(たとえば登場人物の不自然な行動や、コトリバコは何故寺では処理できないのか、など)は、実はこの五つが解明できれば派生的に解決できてしまうからです。それでもなお解決しない大きな疑問としては、たとえば「Sのいた部落」はどこなのか、というものがありますが、それを特定することは風評被害を助長しかねませんので、本記事では一切の言及を避けさせて頂きます。また、コトリバコを伝えたAAなる人物や、初めに作られた「ハッカイ」がどこへ行ったのか、といった疑問に関しても、無根拠な妄想を広げることしかできない(要するに筆者の手には負えない)ので触れません。それでは、各項目の考察に入っていきたいと思います。

 

①1860年代に隠岐であった反乱とは何か
 これは多くのサイトや書籍で指摘されているように、1868年の「隠岐騒動」のことで間違いないと思われます。隠岐騒動」とは、隠岐国において、松前藩の支配に島民が対抗して起こした無血革命です。この騒動により、島民たちは僅か80日間のこととはいえ自治を実現することに成功しました。しかし、せっかく犠牲者のない無血革命であったにも関わらず、藩の兵士が島民たちの総会所に乱入し、発砲した事件をきっかけに殺し合いに発展してしまったのです(銃で武装した兵士たちに対峙する島民たちの武器はせいぜい竹槍程度で、当然勝負にはなりませんでした)。その際、島民側の死者は22名、捕縛入牢者は19名に及びました。また脱走者の正確な数は不明ですが、数十人に及ぶ、と『隠岐島誌』には記載されています。Sの住む場所にコトリバコを伝えたAAという人物は、本文中で「反乱を起こした側」と明記されているため、この脱走者数十名の中にいる、と考えて間違いなさそうです。

 

②AAは何者で、何故コトリバコの作り方を知っていたのか。
 AAは「反乱を起こした側」であるということから、隠岐に住んでいた人間なのは確実です。そして彼がコトリバコの作り方を知っていた、ということは「隠岐(の一部の人々)にコトリバコの作り方が伝わっていた」ということになります。隠岐とはかつての流刑地であり、伴健岑藤原秀郷の息子である藤原千晴後醍醐天皇といった多くの偉人が配流されてきました。コトリバコで用いられている呪法の謎については後程詳説しますが、コトリバコの呪法は朝鮮や中国といった大陸由来の呪術の影響を受けながらも、おそらく(ほぼ間違いなく)「神道のとある思想」と密接に結びついています。そもそも呪術の中身というもの自体が「秘中の秘」であり、一介の庶民、ましてや都から流刑地として扱われていた隠岐の島民に自然と伝わるはずがありません。つまり、隠岐という場所に「コトリバコの原型となる呪術」を伝えた人物がいるはずなのです。果たして、その人物とは一体誰なのでしょうか。


 筆者はその人物を後鳥羽上皇ではないか、と考えます。そして彼こそが本項の表の主役です。後鳥羽院承久の乱隠岐に配流され、そこで崩御しました。承久の乱自体、「天皇家が明確に幕府側に敗れた」という日本史上でも類を見ない極めて異例の大事件です。この大乱が後鳥羽院の自尊心をどれほど傷つけたかは想像に難くありません。また、当時の資料によると後鳥羽院に対する肯定的な意見は非常に少なく、どうも彼は隠岐に流される以前から一癖ある人物であったようです。さらに後鳥羽院は1237年に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」という置文を残しており、幕府への激しい憎悪を表明しています(後に怨霊騒動も起きています)。隠岐に配流された人物の中でも、後鳥羽院は「人を呪う動機」を十分に持ち合わせており、皇族という立場から、秘中の秘としての呪術を知っていてもおかしくない人物なのです。


 しかし、これだけでは「コトリバコの原型を伝えた人物が後鳥羽上皇である」という説の根拠としては弱いように思われます。他にも身分が高く、秘術を知っていてもおかしくないような人物は隠岐に配流されていますし、そもそも流刑に処された人物であれば、ほぼ全員が「人を呪う動機」を持ってるのは当たり前だからです。また、いくら天皇家とはいっても、コトリバコの呪法を後鳥羽院自身がはじめから知っていたとは到底考えられません。そこで、後鳥羽上皇の陰にいた「とある人物」の存在が重要になってきます。後鳥羽院は35年間の在位期間のうち、34回に渡って熊野御幸を行うほど、熊野信仰に熱心な天皇でした。そしてその熊野信仰に付き添い、後鳥羽院から非常に篤い信頼を寄せられていた「ある人物」が存在するのです。


 その人物の名は賀茂在継(ありつぐ)安倍晴明の子孫である安倍国道と陰陽頭をめぐって対立した陰陽師であり、本項の裏の主役です。正直なところ、今回の考察に陰陽道を持ち出すことにはかなりの抵抗がありました。ただでさえ事実誤認による荒唐無稽な俗説に塗れた陰陽道が、さらなる誤解に曝される可能性があるからです。しかし、コトリバコにはやはり大陸由来の呪法の影響があることは認めざるを得ないということ。陰陽寮がかつては、大陸の技術や呪法をいち早く取り入れる最先端の学問機関であったということ。そして何よりも前述したコトリバコの最も重要なベースである「神道のとある思想」が律令制の衰退以降、陰陽道と密接に結びついてしまったということ。これらの事情を考えると、「コトリバコの成立に陰陽師の関与がなかった」と考えることはどうしても無理があるのです。


 賀茂家といえば、安部家と並ぶ陰陽道の大家です。むしろ安倍晴明が現れるまでは、陰陽道といえば賀茂家の独擅場でした。しかも在継は陰陽頭陰陽寮のトップ)を務めた経験もあり、非常に有力な陰陽師であったことは間違いありません。『古今著聞集』には、後鳥羽上皇の熊野御幸に追従し、上皇が経典を紛失した際にその場所を言い当てたという話も残っています(上皇はその一件にいたく感心し、在継に御衣を与えたそうです)。こうした経歴や説話から、後鳥羽上皇と賀茂在継の間に、密接な関係があったことはほぼ確実です。また、このような二人の関係性から、陰陽師である在継からコトリバコの原型となる呪法を後鳥羽上皇に伝えたと推察できるのではないでしょうか。そして後鳥羽上皇もまた、隠岐で自分の周囲にいた僅かな人間にだけその呪法の詳細を伝えたのです。


 話をAAに戻しましょう。AAなる人物は何者だったのでしょうか。先述したように隠岐騒動の脱走者は数十名にのぼり、その正確な数さえ不明です。よってAAの名前を特定することは困難を極めると思われます。ただ、実際のところ種々の資料より脱走者のリストはある程度再現することが可能である上、「秘中の秘であるコトリバコの作り方を知っているような人物であり、なおかつ語り手たちの住む地域(後程詳述します)で珍しい苗字」という条件を考えれば、実はAAをある程度特定することは不可能というわけではありません。しかし、それでもやはり書斎派の筆者には特定は非常に困難ですし、仮に特定できたとしても、AAと同じ姓を持つ人への無根拠な風評被害を助長しかねない為、ここに書くことはできません。


 さて、膨大な量になってきた(既に約4000字!)ので、ここで一旦筆を置きたいと思います。残る三つの謎に関しては、次の記事で考察していきたいと思います。

 

猫娘(嘗女)

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(速水春暁斎『絵本百物語』)

猫娘」(阿州の奇女)
阿波の国にさる豪家の娘、きりやう諸人に勝れしが成因果にや、唯男をねぶるのくせ有りといいはやしけるが、或若者彼が容色にめでて媒人をたのみ彼家に入家し、既に閨房に入りけるが、娘はやがて婿をとらへ、面てより足先までことごとくねぶりけるに、その舌ざらざらと猫の舌のごとくにしてこらへがたく、早く逃げ帰りぬ。夫より此女を「猫娘」と異名せしとなり。
(速水春暁斎『絵本小夜時雨』)

 

「舐め女」
化かしたる 客を送りて 後ろから 長き舌出す なめ女かな

                             墨縄

(『狂歌百物語』より)

 

 

 猫娘、といえば鬼太郎のガールフレンドですが、今回紹介する猫娘は「嘗女(なめおんな)」(『狂歌百物語』では「舐め女」)とも呼ばれるもので、恐らく鬼太郎の猫娘とはあまり関係がありません(後述します)。


 速水春暁斎の『絵本小夜時雨』には「阿州の奇女」という名前で猫娘の話が載っています。猫娘は阿波の国の富豪の娘で、飛びぬけた器量を持っていましたが、やたらと男性の体を舐めまわすという奇癖を持っていたため、なかなか縁談がまとまりませんでした。しかし、ついにある若者が、彼女の容姿や豪商の娘という身の上に惹かれ、入り婿となりました。けれども、初めての夜。男は顔から足の先に至るまで、ありとあらゆるところを舐り回され、しかもその舌がざらざらとしていてまるで猫のようであったことから、とうとう耐えられなくなって(何に耐えられなくなったのか、は定かではありません)、逃げ出してしまった、ということです。


 さて、現在の観点からすれば特に奇妙なことは何一つ起こっておらず(しいて言えば舌がざらざらしていた、という程度でしょうか)、この猫娘は妖怪には見えません。『日本妖怪大事典』の編者である村上健司先生も「妖怪ではなく、奇人の類である」とおっしゃっています。また、日本近世文学を研究しておられる近藤瑞木先生は『百鬼繚乱』の中で、「この種の話の根底には、良縁に恵まれない高嶺の花に対して、悪意のある幻想を生じる、大衆的な心理がある。絵の男の表情は複雑で、嫌がっているのか、悦んでいるのかよくわからないようなところがある」と述べていらっしゃいます。


 口淫の歴史は古く、古代インドの性愛論書『カーマ・スートラ』にもその描写があり、本邦では『日本霊異記』(822年頃に編纂されたという説が一般的です)に息子の男性器を吸う母親の話が出てきます。江戸時代の遊郭などでも一般的に行われていたようです。しかし、現代とは異なり衛生状態もよくなかった時代(江戸っ子は毎日銭湯に行っていた、と言われますが、水が貴重であったため、女性は月に数回しか洗髪をしませんでしたし、現代とは異なり、皆、「身体を洗う前」に湯舟に入っていました。そもそも銭湯という場所の衛生事情がそれほど良いものではなかったのです)、「全身を隈なく舐めまわす」という行為はやはりかなり不衛生で常軌を逸した行為であったことが伺えます(もし現代人が江戸時代にタイムスリップした場合、少なくない方々が妖怪認定されてしまうかもしれません)。


 コナキジジもそうだったように、かつて本邦では、「一般的な在り方から逸脱した人物」も化け物としてカテゴライズされていました。しかし、猫娘はコナキジジとは異なり、「抱き上げると重くなる」とか「地震を起こす」といったような合理的には説明できないような非人間的な属性が付与されていないことは注目に値します。その理由としては、コナキジジのように「何らかの共通項を持つ類似の妖怪」と習合することがなかった、ということもあるのでしょうが、何より当時の社会においては、「全身を舐めまわす」という行為自体が、それだけで十分に非人間的な属性だったからなのかもしれません。

 

 

涎たれ 接吻を狙う 色魔さえ 舐め女には 逃げ出すらむ

 

 

 大正5年発刊の眞木痴嚢の『狂歌化物百首』にもこのような歌があることから、近藤瑞木先生は、「人を舐める女の妖怪として知られるものがあったのかもしれない」と述べておられます。「垢嘗め(あかなめ)」といい「天井嘗め」といい、「舐める必要のない場所を舐める」という行為自体が、江戸の人々には不気味さや異様さの象徴だった可能性は高そうです。


 また1769年、江戸の浅草では猫のような顔をした女性を「猫娘」と称して見世物にしていたという記録があり、藤川寛の『安政雑記』にも1850年頃の牛込に、「猫小僧」とあだ名された「まつ」という名の少女がいたという話が載っていますが、現代で言うところの「障碍」を扱うデリケートな内容になる上、本項の猫娘とは無関係なので詳説は避けさせて頂きます。


 最後に、鬼太郎に登場する「猫娘」というキャラクターですが、これはほぼ間違いなく水木しげる先生のオリジナルキャラクターであり、本項でご紹介した「絵本小夜時雨の猫娘」とは無関係と思われます。猫娘の原型になったキャラクターは、水木先生の貸本『怪奇猫娘』に登場する「みどり」という女性であり、彼女は魚を見ると「顔が猫になる」という奇病を患っています。そしてその原因は、みどりの父が「猫とり」を生業としており、巨大な黒猫を殺害した祟りである、という設定です。みどりは祟りによる奇病のせいで見世物にされ、不幸な最後を遂げてしまいますが、あくまで人間の女性として描かれています(よって、どちらかといえば、前述した「浅草で見世物にされた猫娘」や『安政雑記』に記載された「まつ」のような少女から着想を得られた可能性の方が高そうです)。また、『鬼太郎夜話』には、「寝子」という名前のオリジナルキャラクターが登場しますが(こちらも現在の猫娘の原型です)、彼女もあくまで人間であり、鼠や魚といった猫が好むものに接近すると、猫のような形相に変わる、という設定です。そこから派生して鬼太郎のガールフレンドとしての「猫娘」が誕生したのです(猫娘も、強敵やねずみ男に相対した時などに、「猫の形相」に変わることは周知の通りです)。けれども、本項で紹介した「絵本小夜時雨の猫娘」も、水木先生が描いた「猫娘の原型としてのキャラクター達」も、一風変わってはいますが「あくまで人間」である、という共通点が挙げられることは非常に興味深い点です。
 

 また、水木先生はたいていの場合、図像が存在しない妖怪たちにはオリジナルの図像を書き与えますが(コナキジジや砂かけ婆、油すましなど)、既に有名な図像が存在している妖怪に関しては、かなり忠実にその図像を再現してイラスト化しておられます(たとえば鬼太郎の敵役としての妖怪たちの多くは、鳥山石燕の妖怪画を忠実に再現した姿をしています)。よってもし「鬼太郎のガールフレンドとしての猫娘」が「絵本小夜時雨の猫娘」をモチーフにしているのだとすれば、おそらくもっと容姿に相同性が生じるはずです(冒頭の画像参照。『絵本小夜時雨』猫娘と鬼太郎の猫娘には特に相同性がない)。ちなみに水木先生は『日本妖怪大全』の中で、完全に『絵本小夜時雨』の図像を模写した上で、「絵本小夜時雨の猫娘(嘗女)」の解説を行っておられます。