百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

「鵼」

鵼は深山にすめる化鳥なり。源三位頼政、頭は猿、足手は虎、尾はくちなはのごとき異物を射おとせしに、なく声の鵼に似たればとて、ぬえと名づけしならん。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

 

 2006年に発売された『邪魅の雫』以来、約17年ぶりとなる百鬼夜行シリーズの新作長編『鵼の碑』が発売されました(筆者も全てのページを一ページずつ大切に拝読させて頂きました。京極先生、本当にお疲れ様です。そして本当にありがとうございました)。

 

 さて、本日はその記念(?)として、鵼(ぬえ)という妖怪(正確には鵼という名で知られている妖怪)についてご紹介させて頂きたいと思います。

 

 鵼は鵺、恠鳥、奴延鳥、などとも書きます。正確には鵼という名の妖怪はおらず、「鵼に似たような声で鳴く化物」なのですが、名前がないのは不便なので一般的には鵼という名称で呼ばれています。

 

 それでは本来の鵼とは何なのか、というところなのですが、これは少々複雑で、「声の主体として仮定された存在につけられた名称」です。トラツグミという鳥がいて、その鳥の鳴き声が非常に物悲しく不吉に聞こえるので、「鵼の鳴き声」と言われるようになりました。それでは「鵼=トラツグミ」なのかと問われると少し違います。

 

 なぜなら、トラツグミの声を「鵼の声」と呼んだ昔の人々は、その声をトラツグミという鳥の声だとは認識していなかったからです。夜中に聞こえる正体不明の不吉で悲し気な鳴き声、これを発しているのは何なのだろう、とその声の主体を想像した結果、創作されたのが「鵼」なのです。この辺りは筆者の拙い説明よりも京極先生の『鵼の碑』を引用した方がはるかにわかりやすいかと思いますので、引いてみましょう。

 

「(中略)では、虎鶫(トラツグミ)こそがヌエなのかと問えば、答えは否ですよ。虎鶫とヌエは、声を共有しているだけです」

「共有―ですか」

「はい。啼き声を取り違えられていたと云う鳥の事例は他にも幾つかあるようです。鳥に限らず―そう、地方に依っては蚯蚓(みみず)は鳴くと謂う。だが蚯蚓の声とされるのは実は螻蛄(けら)の出す音です。でも蚯蚓の正体は螻蛄だということにはならないでしょう」

京極夏彦『鵼の碑』)

 

 要するに昔の人は、夜中に聞こえる不気味な鳴き声は「鵼」という謎の化け物の出す声だ、と考えたわけですが、実際にはそれはトラツグミの鳴き声だったわけです。だからといって、トラツグミは謎の化け物なのか、といえばそうはならない。トラツグミはただの鳥ですからその等式は成り立たないのです。鵼=声から想像された謎の化け物、トラツグミ=声の正体である普通の鳥、というわけです。

 

トラツグミ

 

 なら、今回ご紹介する妖怪である鵼(と呼ばれる名前のない化け物)は、「トラツグミの声から想像された謎の化け物」なのかと言えば、これは違います(ややこしくてすみません)。

 

 なぜなら、鵼(と呼ばれる名前のない化け物)の伝承が語られた時点では、「鵼の声=トラツグミの声」であることを人々はもう周知していたからです。事態をわかりやすくするために時系列を整理すると次のようになります。

 

①人々が山中から聞こえる悲しげな声を聞く

②声の正体として「ヌエ」という化物を想像(創造)する

③実際にはその声は化け物ではなく鳥(トラツグミ)の声だと知れる

平安時代にヌエの声(トラツグミの声)に似た声で鳴く化物が現れる

⑤人々はこの④の化け物を鵼と呼ぶようになる

 

 筆者の認識が間違っている可能性もありますが、おおよそこのような流れです。今回紹介していくのは④の鵼(に似た声で鳴く名前のない化物)についてです(これ以降は面倒なので表記は「鵼」に統一します)。

 

 鵼は「平家物語」や「源平盛衰記」などといった文献に登場します。「平家物語」によれば、顔は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇(くちなわ)として描かれ、この姿が最も有名です(この記事の上図に引用した石燕の絵でもそのように書かれています)。しかし、文献によっては異同もあり、「源平盛衰記」では背が虎で、足が狸、尾が狐であるとされています。いずれにせよキメラのような見た目で、日本の妖怪ではかなり奇妙な姿をした妖怪と言えるでしょう。鵼に関する有名なエピソードは以下の通りです。

 

 仁平(1151-1154年)の頃、丑の刻になると東三条の森の方から黒雲が湧き出し、紫宸殿の上を覆い、その度に天皇が気を失うことがありました。高僧を呼んで祈祷を行うも効果はなく、武士である源頼政に黒雲を払うという使命が与えられます。頼政は家来である猪早太を伴い、黒雲に目掛けて矢を射ました。するとヌエのような声が聞こえ、黒雲が晴れ、化物が落ちてきました。その化物は猪早太によって刀で止めをさされましたが、頭は顔は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という奇妙な姿をしていました。化物の死体はうつぼ舟にのせられて流され、頼政は化物退治の功を認められて獅子王という剣を与えられました。

 

 このエピソードからもわかるように、やはり鵼には名前はなく、「ヌエのような声で鳴く化物」でしかありません。しかもこの「ヌエのような声」は実は化物の声ではなく、頼政が射た鏑矢の音だった、と考えられています(この話は『鵼の碑』で何度も登場していますが、以前から京極先生が対談などで度々言及しておられます。鏑矢の飛ぶ音はヌエの声(トラツグミの声)そっくりなのだそうです)。また、『鵼の碑』の中では、「頼政が黒雲に矢を放ったら、たまたま黒雲が晴れた。本来はそれだけの事件だったのだが、その後に黒雲の原因として創作されたものが鵼と呼ばれる妖怪だ」という説を採っています。

 

 妖怪はこのように「結果がまず先にあり、原因としてその存在が創造される」というケースが多々あります。たとえば「山に向かって叫ぶと声が返ってくる(結果)」という事態がまずあり、「これは幽谷響(やまびこ)という妖怪がいて、叫び返しているからだ」という原因が創造されます。また「男を知らないはずの女が妊娠した(結果)」という出来事があり、「河童に犯されたに違いない」という原因が創作されるわけです。

 よって『鵼の碑』に書かれているこの説はかなり説得力のあるものだと思います。しかし、この説が正しいとして、謎なのは鵼の姿です。どうして鵼は日本の妖怪には珍しキメラのような見た目をしているのでしょうか。猿、虎、蛇と聞いてまず思いつくのは干支でしょう。鵼は干支を組み合わせて何か(方角?)を暗示しているのかもしれません。しかし、そうだとしても「狸」の存在が浮いてしまいます。狸が干支に化けそこなった、ということなのでしょうか?どうもすっきりしません。それに前述したように鵼は他の姿で描かれることもあります(背が虎で、足が狸、尾が狐など)。鵼の本質は干支ではなく、「様々な獣(その獣自体が何なのかはさしずめ問題ではない)が合成されている」ことなのでしょうか?そうだとすれはこの化物は何を表しているのでしょうか。

 

 民俗学者小松和彦先生は、「鵼のエピソードには、武士政権への転換が示されているのではないか」と考察されています。たしかに高僧ではなく、武士が化物を退治するというのが印象的です。しかし、それでもやはり鵼の奇妙な姿に関しては説明されていません。また、鵼は「化鳥である」ともいいます。しかし、上図を見て頂いてもわかるようにどこにも鳥の要素はありません。精々鳴き声くらいのものです。

 

 鵼の本質、それは混じり合っていること自体にあるのではないでしょうか。鏑矢の音、トラツグミの声、トラツグミの声として仮想された謎の化物…。こうした諸々のファクターが混じり合って生まれたある種の捉えどころのなさ、その捉えどころのなさを図像化したものこそが鵼の姿であり、本質なのかもしれません。もしそうなのだとすれば、鵼の正体を考察するなど、野暮なことでしょう。

 

高女

鳥山石燕画図百鬼夜行』)

 

 「高女」(たかおんな・たかじょ)は鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に記載された妖怪です。「塗仏」や「おとろし」等と同じく、石燕は「高女」に関して一切の説明を加えていないため、どのような妖怪かはよくわかっていません。

 

 妖怪研究家の多田克己先生は、『百鬼読解』の中で、「毛倡妓(けじょろう)」や「泥田坊」と同じく、吉原遊郭を風刺して石燕が創作したお遊びの妖怪だろうと考察しておられます。実際、石燕の描いた「高女」は、遊郭のような建物の内部を伸びあがるような姿で描かれています。その顔はとても不気味で恐ろしく、今と異なる美的感覚を持っていた江戸の人々にとっても、決して美人とは呼べないでしょう。遊郭で高い金を払ったのに醜女が出てきた」ということなのでしょうか。言葉遊び好きである石燕のことですから、「背の高い醜女」と「値段の高い遊女」を掛けた洒落である可能性も多いにあると思われます。

 

 しかし、この「高女」の如く、伸びあがるように巨大化する妖怪自体は珍しいものではありません。「見越し入道」や「のびあがり」、「高坊主」といった妖怪たちがそれにあたります。実際のところ藤沢衛彦先生の『妖怪画談全集 日本篇 上』ではこのような「巨大化する怪異」として「高女房」なる妖怪の話が紹介されています。それによると「高女房」は和歌山に出現したとされる妖怪で、『妓楼の二階などに下からぬっと出て人を驚かす高女』というキャプションが添えられています。しかし、この「高女房」なる妖怪は、藤沢先生が石燕の描いた「高女」の絵から想像したものに過ぎないのではないかという指摘もなされています。また水木しげる先生の『日本妖怪大全』にもこの和歌山の「高女房」という妖怪のことが触れられており、それによれば「高女房」は木地屋の女房であり、普段は普通の女性なのですが、ひとたび怒り出すと七尺(約2.1メートル)の大女となり、人を食らうというのです。

 

 さらに作家である山田野理夫先生の『東北怪談の旅』の中にも、秋田に出現した妖怪として「高女」の話が紹介されています。短い話ですので引いてみましょう。

 

 天保年間、羽後国の海沿いの名主仁左衛門の屋敷で嫁取りがった。仁左衛門は女房を亡くして永いこと独りでいた。親類のもののすすめで女房を貰った。若い女である。

 仁左衛門を羨むものが多かった。仁左衛門若い女房が寝所に入ると、襖の隙間からのぞきにくるものもいた。

 これには仁左衛門も困却した。そこで寝所を二階に移した。それでも梯子をのぼってきた。仁左衛門は梯子を取り除いて睡ることにした。これで気遣うことはない。

 だが、その晩、階下から二人をのぞいている女がいた。仁左衛門はおどろいて女房にこういった。あれは高女だ。

 高女はしっと深い女で、自分が醜いので男に相手にされず、それで遊女屋などの二階ものぞいて歩く背丈のある女だ。

 

(山田野理夫『東北怪談の旅』)

 

 この山田先生の話の影響からか、様々な書籍では「高女」のことを「嫉妬深い醜女が化けた妖怪」という風な紹介がなされることになりました。しかし、山田先生の『東北怪談の旅』は山田先生の創作話と実際に取材した話が半々程度の割合であることが判明しており、村上健司先生はこの「高女」の話を、『別の怪談に高女の名前を当てはめただけなのではないか』と述べておられます。山田先生が亡くなってしまった今、残念ながら真相を確かめる術はありません。

 

 さて、この「高女」ですが、近年になって度々インターネットなどで話題に上がることがあります。怪談好きの方なら御存知でしょうが、あの有名な2chの怪談『八尺様』の正体がこの「高女」なのではないか、と言うのです。個人的には「昔から語られている妖怪が実はほんとうに実在しており、現代でもその名を変えて人々の前に姿を現している」という筋書きは大好きなのですが、まぁ実際のところ「高女」も「八尺様」もどちらも創作でしょう(いつもすみません)。

 

 しかし、『八尺様』の怪談を創作された方が、「高女」の存在からインスピレーションを得た可能性は十分に考えられます。先ほど紹介したように、水木先生の『日本妖怪大全』に書かれた「高女房」の身長は七尺です。これをあと一尺グレードアップさせれば『八尺様』になります。そもそも我が国において、七と八の間には明確な断絶があります(これは『コトリバコ』の記事でもお話しさせて頂きましたね)。たとえば、昔は「七つまでは神のうち」といって、子どもは七歳の頃まではこの世とあの世の境にいる曖昧な存在とされていました。八歳になってようやく完全なこの世の人間となるのです。また、「永遠」のことを「八千代」と言い(君が代でおなじみですね)、「たくさんの神様」を「八百万の神」と言います。コトリバコにおいても「シッポウ(七封)」から「ハッカイ(八開)」で呪いの強さが跳ね上がりました。そのような我が国の文化的背景を鑑みても、『七尺様』よりは『八尺様』の方が得体の知れない怪異の名前として相応しいと考えられたのかもしれません(有名な「八岐大蛇」も同じような例と言えるでしょう)。

 

 もちろん、「高女」が石燕の創作ではなく、実際に伝承されていた妖怪である可能性も否定はできません。もしもそうであるなら、このような想像をすることも可能ではないでしょうか。

 

 「高女」はあまりのおそろしさにその伝承が具体的に書き残されることはありませんでした。しかし、一部の地域でだけは、「高女」の伝承は口伝で生き続けていました。その地域とは、実際に「高女」を封じ込めた小さな村でした。ただ、その村ではその妖怪は「高女」とは呼ばれていませんでした。村人たちは妖怪のと途方もなく高い背丈から、単に大きいという意味が込められた「八」という数字を連想し、畏怖の念を込めてこう呼んだのです。

 

『八尺様』と。

 

くねくね【弐】

「くねくね」

 水田や川辺といった、田舎の水場に現れるとされる怪異。遠目では人と同じような姿をしているが、その前身は白く、関節を曲げながら踊るようにくねくねとゆれており、その関節の動きは常識ではありえないという。これを見てしまうと精神に異常をきたすといわれる。

(寺田広樹『オカルト怪異事典』)

 

 

 まず前回から五か月近くも更新が滞っていたことをお詫び申し上げます。完全なる私事なのですが、仕事が忙しかったり、引っ越しがあったりで、公私ともに慌ただしく、ブログの存在さえも忘れておりました…。今後ともゆっくり更新していきますので、読者の皆様は何卒宜しくお願いいたします。

 

 さて、今回の記事は前回の続きで、くねくねの正体に関する考察です。巷でくねくねの正体として囁かれているものから、筆者の個人的な考察も含めて見ていきましょう(単なる創作である、という最も有力な説に関しては今回触れません)。

 

 

①ひょうすべ説

 筆者が初めてくねくねについての話を聞いたのは、中学時代でした。当時の筆者は携帯電話も持っておりませんでしたし、ネットサーフィンをする習慣もあまりなかったので、くねくねの話は地元の公園で友人に聞かされたのをよく覚えています。その時の内容は、一般的に知られる「くねくね」の内容そのものだったのですが、まずその話を聞いた時に頭に浮かんだのが「ひょうすべ」という妖怪でした。

 

(佐脇崇之『百怪図巻』)

 ひょうすべはよく河童の一種として語られる妖怪で、主に九州地方に出没すると言われています。ひょうすべについて語ると非常に長くなるのですが、中学生だった筆者にとってみれば、「水辺に現れる」(河童なので当然ですね)、「くねくねと動く」「見たら気が狂う」という部分がひょうすべのイメージに一致していたのです。様々な書籍では「ひょうすべを見たら気が狂う」とか「ひょうすべを見たら死ぬ」などといった解説がなされています。そして、実際、調べてみるとくねくねの正体をひょうすべとするような考察もいくつか見つかりました(あとくねくねのようなものを見たことを祖父に言うと「それはひょうせぇや」、と言われるというような怪談もありました)。

 

 しかし、この考察には無理があります。実際のところ、ひょうすべを見たら気が狂うというのは佐藤有文先生による創作だからです。佐藤有文先生は児童向けの妖怪図鑑、『日本妖怪図鑑』の中でひょうすべについてこのように述べておられます。

 

『人と出あうと、ヒッヒッヒッと笑うが、もらい笑いをすると熱を出して死ぬという』

 

 『日本妖怪図鑑』は佐藤有文先生の創作がふんだんに盛り込まれた作品であり、この部分もこれより過去の文献に見つけることはできません。この話が徐々に人口に膾炙していく中で改変され、「ひょうすべを見たら死ぬ」とか「ひょうすべを見たら気が狂う」という話になっていったのでしょう。また、くねくねらしき怪異の初出である「分からない方がいい・・」においては、くねくねが出没した場所はたしかに不明ですが、それ以降の話では秋田県など東北地方が舞台として語られることが多いことを鑑みても、九州の妖怪であるひょうすべが正体である可能性は低いと思われます。

 

 

②しょうけら説

 また、当時の筆者がくねくね以外で頭に浮かべたのはしょうけらという妖怪です。

 

(佐脇崇之『百怪図巻』)

 しょうけらは本来、人の体内に潜み、庚申の夜になるとその人の身体を抜け出し、宿主の罪状を天帝に報告してその寿命を縮めようとする妖怪です。宿主が死ねば、しょうけらはその身体から解放されて自由になれるため、宿主である人間には早く死んで欲しいわけです(だからしょうけらが身体から抜け出さないよう見張るために、庚申の夜には人々は眠らずに夜を明かしました)。

 

 このように「人の寿命を縮める妖怪」というところから、「疫病を運ぶ妖怪」と解釈され、後の漫画作品などでは「疫病神の一種」として語られることになりました。さらにこのしょうけらは真倉翔先生原作の『地獄先生ぬーべー』第六十八話『妖怪しょうけらが窓から覗くの巻』で、一躍当時の子供たちにトラウマを植え付けました。夕暮れ時、ふと見上げると屋根の上で激しくくねくねと踊る黒い影…それを見ると熱病にうなされるという話です。その正体こそがしょうけらなのですが、その影の描写が本当に不気味で、今でもよく『地獄先生ぬーべー』のトラウマ回として語られます。

 

 このぬーべーにおけるしょうけらのイメージは、「見たら気が狂う」や「くねくねと動く」というくねくねのイメージに見事に一致していますが、この話はもちろん真倉先生の創作です。よって、くねくねの正体がしょうけらという説はあり得ないのですが、この『妖怪しょうけらが窓から覗くの巻』で描かれたしょうけらの強烈なイメージが、後の創作怪談に影響を与えた可能性は大いにあるでしょう。

 

ドッペルゲンガー

 これはネットでよく囁かれている説です。ドッペルゲンガーとはもう一人の自分を見てしまう現象のことで、自分で自分のドッペルゲンガーを見てしまった場合は死ぬ、という風に語られます。ドッペルゲンガーというのはドイツ語ですが、日本でも同じような現象は目撃されており、その場合は生霊として解釈されることが多かったようです。かの芥川龍之介は自分のドッペルゲンガーを見たとも解釈できる描写を、晩年の傑作『歯車』の中に書いています(実際その後、芥川が服毒自殺を遂げたことは周知の事実です)。

 

 医学的にはドッペルゲンガーは自己像幻視として、脳の異常という風に解釈されます。脳に何かしらの異常をきたしているわけですから、もう一人の自分を見てしまう現象は、実際に死期が迫っている前兆なのかもしれません(しかしこれだと不特定多数の第三者までもがドッペルゲンガーを目撃する事例に関する説明がつきません。また、David McCabeとAlan Castelが行った実験のように、人は「脳の誤作動の影響」など、説明の中に「脳」という言葉が入ると、たとえどんな荒唐無稽な説明でも比較的簡単に信じてしまうという研究結果もあります。それゆえ筆者は個人的に何でも脳のせいにして話を終わらせる傾向はあまり好きではありません。そうするとなんでもありになってしまうからです)。

 

 閑話休題

 

 このように「見たら死ぬ」ということからドッペルゲンガー説にはくねくねとの親和性を感じます。また、正体不明の影の正体が自分自身というのは確かに怪談のオチとしてはよくありそうです。しかし、くねくねと踊りまくるドッペルゲンガーの話なんて聞いたことがありません。また、くねくねを目撃した本人が「(その正体を)分からない方がいい・・」と連れ合いに言うのもどこか不自然です。その正体はあくまでもう一人の目撃者自身であり、もう一人の連れ合いではないわけですから、連れ合いにとってはその正体は分からない方がいいものとも言えないからです。

 

 さて、くねくねを超常現象と解釈するのであれば、考えられる正体はそんなところでしょうか。現実的な仮説を採用するのであれば、蜃気楼説や案山子説、デウスエクスマキナである脳の誤作動説などがあります。もしかすると白い服を着た人が、夏休みにテンションが上がってしまい、本当に踊り狂っていただけなのかもしれません(夏場に白い服を着るのは断熱性の観点から見ても特に不自然なことではありませんし、その人が親戚のおじさんなどであれば、たしかにその場合、正体は「分からない方がいい・・」でしょう)。これらを見ても特に精神に異常を来す原因にはなりませんが(その踊り狂っている当人が、親戚のおじさんなどであれば軽く落ち込みはするでしょうが…)、前回の記事で確認したように、オリジナルである「分からない方がいい・・」の中では、くねくねらしきものを見たことと、目撃者が知的障害を患ったことの因果関係は不明ですから、目撃者は変なものを見たあとに、偶然何かしらの病に罹ったり、事故にあったりしただけなのかもしれません。

 

 真相は闇の中ですが、解釈次第では特に不思議なことは起きていないのです。だからこそ、くねくねと似た怪異は、現実に目撃されうるのかもしれません。

 

 

くねくね【壱】

「くねくね」

 主に田園に現れる、その名の通り体をくねらせるようにして動くという怪異。色は白く、人間の関節の構造上不可能な曲げ方をする。またこれを遠目に見る分には問題がないが、双眼鏡などの道具を介す場合も含めてそれを間近で見てしまい、それが何であるかを理解すると精神に異常をきたしてしまうという。

(朝里樹『日本現代怪異事典』)

 

 くねくねは、2chで語られた怪異のひとつです。八尺様やコトリバコ、ヤマノケなどと並んで非常に有名な怪異ですから、ネット発祥の怪談が好きという方の中で知らない人はほとんどいないでしょう。しかし、くねくねの初出は2chではなく、2000年3月5日に「怪談投稿」というウェブサイトに投稿された「分からないほうがいい・・」という話であるとされています。この「分からないほうがいい・・」という話が2001年7月7日に2chのオカルト板に転載されて以降、徐々に人口に膾炙していったようです。短い話ですから、まず「分からない方がいい・・」という怪談を引いてみましょう。

 

212 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:2001/07/07(土) 01:28

わたしの弟から聞いた本当の話です。

弟の友達のA君の実体験だそうです。

 

A君が子供の頃、A君のお兄さんとお母さんの田舎へ遊びに行きました。

外は晴れていて、田んぼが緑に生い茂っている頃でした。

 

せっかくの良い天気なのに、なぜか2人は外で遊ぶ気がしなくて、家の中で遊んでいました。

ふと、お兄さんが立ち上がり、窓のところへ行きました。

A君も続いて窓へ進みました。

お兄さんの視線の方向を追いかけてみると、人が見えました。

真っ白な服を着た人が1人立っています。(男なのか女なのか、その窓からの距離ではよく分からなかったそうです)

あんな所で何をしているのかなと思い、続けて見ると、

その白い服の人は、くねくねと動き始めました。

踊りかな?そう思ったのもつかの間、その白い人は不自然な方向に体を曲げるのです。

とても人間とは思えない間接の曲げ方をするそうです。くねくねくねくねと。

A君は気味が悪くなり、お兄さんに話しかけました。

「ねえ。あれ、何だろ?お兄ちゃん、見える?」

すると、お兄さんも「分からない」と答えたそうです。

ですが答えた直後、お兄さんはあの白い人が何なのか分かったようです。

「お兄ちゃん、分かったの?教えて?」とA君が、聞いたのですが、

お兄さんは「分かった。でも、分からない方がいい」と、答えてくれませんでした。

 

あれは一体なんだったのでしょうか?

今でもA君は分からないそうです。

「お兄さんにもう一度聞けばいいじゃない?」と、私は弟に言ってみました。

これだけでは私も何だか消化不良ですから。

すると弟がこう言ったのです。

「A君のお兄さん、今、知的障害になっちゃってるんだよ」

 

 非常にシンプルであり、そうであるがゆえに不気味な怪談です。この話の興味深い点は、まずくねくねと思われる怪異が、「真っ白な服を着た人」と明記されているところです。くねくねはその色が黒であったり、白であったり話によって異なるのですが、「白い何か」とか「黒い何か」と形容されることが多いのです。しかし、オリジナルとなる話では、明確に「白い服を着た人である」(少なくとも体験者にはそう見えた)と書かれているのです。

 

 また、くねくねの特性として、冒頭の引用にも書かれている通り、それが何なのかを理解した瞬間に精神に観察者は異常をきたす、というものがありますが、この「分からないほうがいい・・」の話の中では、その因果関係が曖昧です。たしかに観察者であるAの兄は知的障害を患っている、というところで話が終わるのですが、その原因が怪異を見たせいであるとは明言されていないのです。(しかし、聞き手は、その明記されていない情報を想像力によって埋めてしまいます。このように、敢えて書かないことで聞き手の想像力を刺激し、恐怖を喚起させるのは良い怪談の重要なファクターです。やはりこの「分からないほうがいい・・」という怪談には卓越したものが感じられます。)

 

 つまり、オリジナルである「分からないほうがいい・・」という怪談に登場する怪異の特徴は・・・

①よく晴れた田舎に現れる(おそらく夏休みでしょう)。

②真っ白な服を着た人間のような姿である(少なくとも遠目からはそう見える)。

③不自然な方向に身体をくねくねと曲げて踊る。

④その正体については分からない方がいい。

⑤因果関係は不明だが、正体を理解した観察者は現在知的障害を抱えている。

 

 以上の五点ということになるでしょうか。このようにまとめていて、気づいたのですが、実はこの話において、くねくねがどこに現れたのかは一切明記されていません。冒頭の引用文にも記載しているように、一般的にくねくねは田園に現れるとされています。しかし、この怪談の中には、たしかに「田んぼに緑が生い茂っている頃」ということで、「田んぼ」というワードは出てくるのですが、肝心のくねくねが田んぼに現れたとは一言も書いていないのです。くねくねがいる場所はあくまで「窓の外」であり、「あんな所」でしかありません。それがどこであるのかはわからないのです。

 

 さて、ここまで、最初のくねくね譚である「分からないほうがいい・・」の内容を確認してきました。次は最もよく知られている「くねくね」という話を引いてみましょう。

 

これは小さい頃、秋田にある祖母の実家に帰省した時の事である。

年に一度のお盆にしか訪れる事のない祖母の家に着いた僕は、早速大はしゃぎで兄と外に遊びに行った。

都会とは違い空気が断然うまい。僕は爽やかな風を浴びながら、兄と田んぼの周りを駆け回った。

 

そして日が登りきり真昼に差し掛かった頃、

ピタリと風が止んだ。と思ったら、気持ち悪いぐらいの生緩い風が吹いてきた。

僕は「ただでさえ暑いのに、何でこんな暖かい風が吹いてくるんだよ!」と、

さっきの爽快感を奪われた事で、少し機嫌悪そうに言い放った。

すると兄は、さっきから別な方向を見ている。その方向には案山子(かかし)がある。

「あの案山子がどうしたの?」と兄に聞くと、

兄は「いや、その向こうだ」と言って、ますます目を凝らして見ている。

僕も気になり、田んぼのずっと向こうをジーッと見た。

すると、確かに見える。何だ…あれは。

 

遠くからだからよく分からないが、人ぐらいの大きさの白い物体が、くねくねと動いている。

しかも、周りには田んぼがあるだけ。近くに人がいるわけでもない。

僕は一瞬奇妙に感じたが、ひとまずこう解釈した。

「あれ、新種の案山子じゃない?

 きっと!今まで動く案山子なんか無かったから、農家の人か誰かが考えたんだ!

 多分さっきから吹いてる風で動いてるんだよ!」

兄は僕のズバリ的確な解釈に納得した表情だったが、その表情は一瞬で消えた。

風がピタリと止んだのだ。しかし、例の白い物体は相変わらずくねくねと動いている。

兄は「おい…まだ動いてるぞ…あれは一体何なんだ?」と驚いた口調で言い、

気になってしょうがなかったのか、兄は家に戻り、双眼鏡を持って再び現場にきた。

兄は少々ワクワクした様子で「最初俺が見てみるから、お前は少し待ってろよー!」と言い、

はりきって双眼鏡を覗いた。

 

すると急に兄の顔に変化が生じた。

みるみる真っ青になっていき、冷や汗をだくだく流して、ついには持ってる双眼鏡を落とした。

僕は兄の変貌ぶりを恐れながらも、兄に聞いてみた。

「何だったの?」

兄はゆっくり答えた。

『わカらナいホうガいイ……』

すでに兄の声では無かった。兄はそのままヒタヒタと家に戻っていった。

僕はすぐさま兄を真っ青にしたあの白い物体を見てやろうと、落ちてる双眼鏡を取ろうとしたが、

兄の言葉を聞いたせいか、見る勇気が無い。

しかし気になる。

遠くから見たら、ただ白い物体が奇妙にくねくねと動いているだけだ。

少し奇妙だが、それ以上の恐怖感は起こらない。しかし兄は…。

よし、見るしかない。どんな物が兄に恐怖を与えたのか、自分の目で確かめてやる!

僕は落ちてる双眼鏡を取って覗こうとした。

その時、祖父がすごいあせった様子でこっちに走ってきた。

僕が「どうしたの?」と尋ねる前に、

すごい勢いで祖父が「あの白い物体を見てはならん!見たのか!お前、その双眼鏡で見たのか!」と迫ってきた。

僕は「いや…まだ…」と少しキョドった感じで答えたら、

祖父は「よかった…」と言い、安心した様子でその場に泣き崩れた。

僕はわけの分からないまま家に戻された。

 

帰ると、みんな泣いている。僕の事で?いや、違う。

よく見ると、兄だけ狂ったように笑いながら、まるであの白い物体のようにくねくね、くねくねと乱舞している。

僕はその兄の姿に、あの白い物体よりもすごい恐怖感を覚えた。

 

そして家に帰る日、祖母がこう言った。

「兄はここに置いといた方が暮らしやすいだろう。

 あっちだと狭いし、世間の事を考えたら、数日も持たん…

 うちに置いといて、何年か経ってから、田んぼに放してやるのが一番だ…」

僕はその言葉を聞き、大声で泣き叫んだ。

以前の兄の姿はもう無い。

また来年、実家に行った時に会ったとしても、それはもう兄ではない。

何でこんな事に…ついこの前まで仲良く遊んでたのに、何で…。

僕は必死に涙を拭い、車に乗って実家を離れた。

 

祖父たちが手を振ってる中で、変わり果てた兄が一瞬僕に手を振ったように見えた。

僕は遠ざかってゆく中、兄の表情を見ようと双眼鏡で覗いたら、兄は確かに泣いていた。

表情は笑っていたが、今まで兄が一度も見せなかったような、最初で最後の悲しい笑顔だった。

そして角を曲がったときにはもう兄の姿は見えなくなったが、僕は涙を流しながらずっと双眼鏡を覗き続けた。

「いつか…元に戻るよね…」

そう思って、兄の元の姿を懐かしみながら、緑が一面に広がる田んぼを見晴らしていた。

兄との思い出を回想しながら、ただ双眼鏡を覗いていた。

…その時だった。

見てはいけないと分かっている物を間近で見てしまったのだ。

 

 この話は2003年3月29日に2chのオカルト板「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?31」スレッドに投稿されました。この話で初めて「くねくね」という名称が一般化し、爆発的にこの怪異が日本中に広まっていったのです。しかし、この話の前置きとして、この投稿をした人物が次のように明言しています。引いてみましょう。

 

756 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/29 18:56

別サイトに掲載されてて、このスレの投票所でも結構人気のある、

『分からないほうがいい』って話あるじゃないですか。

その話、自分が子供の頃体験した事と恐ろしく似てたんです。

それで、体験した事自体は全然怖くないのですが、

その『分からないほうがいい』と重ね合わせると凄い怖かったので、

その体験話を元に『分からないほうがいい』と混ぜて詳しく書いてみたんですが、載せてもいいでしょうか?

 

 つまり、この「くねくね」の話は、先ほどの「分からないほうがいい・・」と投稿者の体験談を混ぜて作った創作怪談である、ということです。どこまでが投稿者の体験談であるのかは判断することが難しいのですが、投稿者自身は「体験したこと自体は全然怖くない」と書いているところからも、兄が狂ってしまう描写などは間違いなく創作でしょう(そこが実話だとしたら「全然怖くない」はずがありません)。あくまで推測でしかありませんが、この話の中で事実である可能性がある部分があるとすれば、それは、「田んぼでくねくねと動く白い物体を見た」という辺りでしょう。しかし朝里樹先生の『日本現代怪異事典』によると、実はその部分すらも投稿者によって否定されており、実際はくねくねしたものなどは見てはいない、ということです。それならば事実である部分が「夏休みに秋田に帰省した」くらいしか残らない気がしますが、それは置いておきましょう。

 

 この「くねくね」は「分からないほうがいい・・」とは異なる点が多くあります。

 

①場所が秋田であると明言されている。

②くねくねが現れる前に生暖かい風が吹く。

③くねくねが「人ぐらいの大きさの白い物体」として描かれ、田園に現れる。

④くねくねの存在を祖父母らは田舎の古い人間はよく知っている。

⑤くねくねと知的障害の因果関係が明確である。

⑥くねくねを見た者が次のくねくねになる未来が示唆されている。

 

 この辺りでしょうか。特に④は2ch怪談のお約束といった感じで微笑ましさすら感じます。しかし、投稿者の前振りからもわかるように④⑤⑥はほぼ確実に創作ですし、また③も創作であることが明言されていますから、自動的に②も創作ということになります。よってこれらに考察を加えていく余地はないでしょう。やはり事実らしき部分が、秋田に帰省したという部分しか残りません

 

 ただ、現在伝わっているくねくねの特徴は、ほとんどこの話がベースとなっているのが事実です。そしてこれ以降、大量の類似の怪異が掲示板に投稿されていきました。しかし、筆者としては、創作であることが明言されている話には興味がありません。「2chの怪談なんて全部創作に決まってんだろ」という常軌を逸したマジレスが聞こえてきそうですし、筆者もそう思うのですが、個人的には怪談の資料の研究を行う上で、「創作であると明言されているかどうか」が大切だと思っています。

 

 よって、次回は、「分からないほうがいい・・」に書かれたくねくねに焦点を絞りながら、くねくねの正体について考察していきたいと思います。

火消婆

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鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

 

「火消婆」

それ火は陽気なり。妖は陰気なり。うば玉の夜の暗きには、陰気の陽気にかつ時なれば、火消婆もあるべきにや。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

 

 まずはじめに長らく更新が滞っていたことをお詫び申し上げます。昨年の九月以降、仕事の方が非常に忙しく(ありがたいことです)、ブログの更新をしている余裕がありませんでした…。新年の挨拶も遅れてしまいましたが、今年もどうぞ宜しくお願いいたします。亀更新ではありますが、今後ともこのブログは続けていく予定です。

 

 さて、本日ご紹介させて頂くのは火消婆という妖怪です。この妖怪は、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』に描かれた妖怪で、石燕の絵を元に作成された鍋田玉英の『怪物画本』では「ふっけし婆々」という名前になっています。水木しげる先生の著作では、「吹消婆」と記載されることが多いため、そちらの名前に馴染みがある方の方が多いかもしれません。

 

 『今昔画図続百鬼』によると、「夜は陰気が勝つ時間帯であるので、陽気である火を消す火消婆のような妖怪がいてもおかしくはない」とのことで、この説明文のニュアンスからも、おそらく石燕の創作妖怪なのでしょう。

 

 石燕は頻繁に遊郭を揶揄した妖怪を創作しています。たとえば、高女や毛倡妓、泥田坊といった妖怪などがそうした妖怪だと考えられています。そして、筆者としてはこの火消婆もまた、そうした遊郭を揶揄する妖怪の一種なのではないか、と考えています。

 

 このブログでも度々言及してきたように、かつて油というものは非常な高級品でした。石燕の生きた江戸時代では、夜の闇の濃さは今の比ではありませんでした。そんな闇を照らす行灯の火は、我々が使う蝋燭の火よりもずっと微かなものでした。しかし、そんな火でもやはりとても貴重なもので、火の苗床となる油は、大変重宝されていたのです。

 

 それゆえ、油を盗むことは、ちょっと現代の感覚では想像できないほどに罪なことと考えられていたようです。たとえばある老婆が河内国にある枚岡神社の灯油を毎晩盗み出しており、その罪から死後、姥ヶ火という妖怪へと変化した、という話があります。また、叢源火という妖怪も、賽銭や灯油を盗んでいた悪僧が、死後にその悪行によって火の玉になってしまったという話です。こうした話は、単純に神社に対する不敬が齎した神罰と考えることもできますが、やはり当時の人々にとって油がいかに貴重品であったかを物語る証左と考えることもできるでしょう。

 

 しかし、そうした貴重品である油や蝋燭を惜しげもなく使い、漆黒の帳がおりた後でもなお、明るく輝いていた場所がありました。それが吉原を代表とする遊郭です(昨今は、大人気アニメ、『鬼滅の刃遊郭編―』が放送されている影響もあってか、世間の遊郭に対する関心が高まっているようにも思えます)。遊郭というのは、江戸の人々にとって、最も高価な遊びの一つでしたが、それは遊郭側が当時の高級品であった蝋燭や油の代金を賄うためでもありました。客単価を上げて商売をしないと、夜中に消費した蝋や油の元を取ることができないのです。

 

 遊女の油舐め、という言葉があります。これは金にならない遊女を揶揄する言葉で、「客が取れない遊女はいたずらに灯油を消費するばかりでかなわない」という意味があります。つまり、モテない遊女は「油を舐めている」(無駄に灯油を消費している)ということです。よって、遊郭側にしてみれば、モテない遊女というものは無為に油を消費し尽くし、火を消していくだけのお荷物ということになってしまいます。そして、火消婆というのはこうした遊郭の事情から創作された妖怪ではないでしょうか。

 

 つまり、火消婆とは、客の取れない年増の遊女(=婆)のことであり、彼女らは火を消す(油を無駄に使う)だけで、遊郭側に何の利をもたらすことはしない、ということを象徴的に表現したものかもしれません。現代の感覚で言えば、大へんに失礼な話ですが、石燕の当時の遊郭に対する態度を考えれば、そうした妖怪を創作していたとしても、時に不思議はないようにも思われます。

 

 ということで、筆者としては、「火消婆というのは、客のとれない年増の遊女が油を無駄に使う様を揶揄した妖怪であり、石燕の創作妖怪の一つである」という結論を下したいと思います。しかし、実は火消婆には、面白い逸話も残されています。それは、作家である山田野理夫先生が『東北怪談の旅』に書き記された、『吹き消し婆』という話です。それは、秋田県で行われたある婚礼が終わった後のことでした。

 

 日が落ちても皆はまだ酔っていた。いくら酒を飲んでも身上がピクともするものではない。広い座敷にはローソクが点されてあかあかとしていた。嫁が婿とともに座敷から立ち去ると、座敷の客でポツポツ帰るものが出てきた。

 すっかり客たちは帰った。この家の者も疲れてぼんやりとしていた。

 番頭は主人に代わって後始末を見回る役目があった。番頭は奥座敷ローソクが消されていないことに気がついた。それで奥座敷へやってきた。

 そこには見なれぬ老婆がいた。それでも番頭は手伝い婆と思った。老婆は、ローソクの灯をフー、フー、と一本ずつ息を吹きかけて消して歩いていた。

 番頭は、おまえは年寄りだけあってよく気がつくね、といった。

 老婆は、返辞をしないが、消しつづけていた。ローソクの火を全部消しおわるとともに老婆の姿も消えてしまった。

 番頭は、あれが吹き消し婆なのだ、とつぶやいた。その夜は風のない晩であった。

 

山田野理夫『東北怪談の旅』

 

 山田先生は作家ですので、この話もまた創作である可能性は高いでしょう。しかし、山田先生は、同じく作家である京極夏彦先生との対談の中で、「実際に自分が取材して集めた話と、創作の割合は半々くらい」とおっしゃっています。なので、山田先生が亡くなった今、この話もまた創作である、と断言することは誰にもできません。

 

 もしかすると火消婆というのは、石燕の創作でもなければ、客の取れない年増の遊女の比喩でもなく、実際にいるのかもしれません。現代でも、原因のはっきりしない停電がよく起きるといいます。今夜、あなたの家で、交換したばかりの電球が急に消えてしまったら、それは火消婆の仕業かもしれません。

 

 

迷い家

「マヨヒガ」

遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。

柳田国男遠野物語』)

 

 マヨイガ迷い家・マヨヒガ)とは、主に東北地方や関東地方に伝わる怪異です。有名な柳田国男先生の『遠野物語』に記載があり、いくつもの研究論考が存在するという風に学術的なフェイズで取り上げられるケースが比較的多い怪異でもあります。

 マヨイガについて最も有名な話は、紛れもなく『遠野物語』第六三段にある、三浦という家の嫁が体験したという怪異譚だと思われます。引いてみましょう。

 

 小国の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代目の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るゝ小さき川に沿ひて蕗ども終に人影は無ければ、もしは山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。

 此事を人に語れども実と思う者も無かりしが、又或日我家のカドに出でゝ物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之を食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツ(雑穀を収納する櫃)の中に起きてケセネを量る器と為したり。然るに此器にて量り始めてより、いつ迄経ちてもケセネ尽きず。家の者も之を怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。

 遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。女が無慾にて何物をも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしと云へり。

柳田国男遠野物語』)

 

 ここに語られる体験談によると、マヨイガは三浦という貧しい家が、現在のような村一番の物持ち家になった理由として語られています。マヨイガに紛れ込んだ三浦家の嫁が、マヨイガから流れてきた赤い椀を拾ったことで、三浦家は富み栄えるようになった、というあらましです。

 

 この話によるとマヨイガは、民俗学者小松和彦先生が『憑霊信仰論』の中で語った座敷童の話と同じく、「富の偏りを説明するシステム」として解することができます。

 

 かつての村落共同体社では、『貧富の差』というのは非常に不可解な現象でした。同じ村で生活し、同じような気候条件の下、農作物を育てているにも関わらず、特定の家にのみ富が集中するという事態の説明がつかなかったのです。そこで生まれたのが座敷童や憑き物筋のような富の偏りを説明するシステムだった、ということです。座敷童の住む家は栄えると言います。よって、「あの家には座敷童がいるから豊かなのだ」と解釈することにより、貧富の差を説明しようとするわけです。逆に豊かであったはずの家が急に没落した場合は「座敷童が出ていったのだ」とすることで説明することが可能です。

 

 こうした解釈に基づくのであれば、マヨイガもまた、三浦家の隆盛の理由を説明するための機能を果たしていると考えられるでしょう。「あの家が栄えているのは、昔、あの家の嫁がマヨイガに迷い込んだからだ」ということです。

 

 さて、ただしマヨイガは単なる富の偏りを説明するために生まれた説明体系に過ぎない、とは言い切れないような節があります。同じく『遠野物語』の六四段には、別の男がマヨイガに迷い込む話が掲載されています。しかし、この話では、この男の家は特に富み栄えるわけではないのです。引いてみましょう。

 

 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某かゝが家に娘の聟を取りたり。此聟実家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小国の村里に出でたり。

 小国にては此話を聞きて實とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来り長者にならんとて、聟殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奥に入り、こゝに門ありきと云ふ処に来れども、眼にかゝるものも無く空しく帰り来りぬ。その聟も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。

柳田国男遠野物語』)

 

 マヨイガの伝承は、マヨイガにある物を持ち帰ることで、その者に富をもたらす」というものです。しかし、この話によると、男はマヨイガの物を何も持ち帰らなかったため、特に金持ちになることもなかった、という話で締められます。また、興味深い点としては、再びマヨイガのあったはずのところに訪れても、そこには何もなかった、という話が付け加えられていることです。よって、この段では、マヨイガは富の偏りを説明するシステムとしての側面を失い、単なる異界探訪譚のようなものとして語られています。

 

 男が夢を見ていた、嘘をつていた、もしくは二度目に訪れた時は単に道を間違えた、など合理的な解釈はいくらでも可能です。実際「山中で人のいない美しい家に行きあった」というのは、刺激の強い怪談に慣れた現代人からすれば、怪談と呼ぶことさえできないかもしれません。

 

 しかし、面白いのは「数多の牛馬鶏がいた」点や「紅白の美しい花が咲き乱れていた」点です。美しい花が咲き乱れる景色というのは、現代においてもまだ死後の世界や異世界の記号として十分に機能しています。少し前に水曜日のダウンタウンという番組で、「泥酔して目覚めた時、そこがお花畑だったら人は自分が死んだと思うのか」という説を検証していました。このように、「花畑=彼岸」というイメージはまだまだ根強いのでしょう。

 

 ただ、「牛馬鶏が多数いた」というのは、現代の異界探訪譚からすれば、些か牧歌的すぎるような気がします。むしろ、この部分は現代人から見れば、ある種の異界性を軽減する働きをしているとさえ言っていいでしょう。現代における有名な異界探訪譚である「きさらぎ駅」などの異界駅シリーズにも、家畜動物たちがのんびり暮らしている描写はまずありません(そんなシーンがあれば、読者の恐怖はかなり和らぐはずです)。この辺りの描写や、(少なくとも伝承にある限りは)何の代償も要求せずに人に富を与えるという属性から、マヨイガは「恐ろしい場所としての異界」ではなく、極楽などの「人が憧れる場所としての異界」の属性を強く持っていると言えるでしょう。

 

 マヨイガの正体は不明です。実際にそういう家があったのかもしれませんし、体験者は本当に異界に迷い込んだのかもしれません。もしかすると狐に化かされていたのかもしれません。しかし、このマヨイガの話はなぜか多くの人を魅了するらしく、数々の創作に取り上げられています(今月にも『岬のマヨイガ』というアニメ映画が公開される予定とのことです)。異世界転生モノなどが大流行するご時世です。異界への憧れはますます強まっているように思います。また、異世界転生モノに惹かれるほど露骨ではなくとも、このソリッドすぎる現実に疲れた多くの人々は、この世とは少しだけ別の理を持った異界の切れ端に、憧憬を感じるかもしれません。

 

幽霊

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鳥山石燕画図百鬼夜行』)

 

 気がつけば令和になって丸二年以上が経過し、西暦は2021年となりました。2021年といえば、昭和を生きていた人々からすれば、紛れもない『超未来社会』であり、当時の人々が想像するようなことはほとんど可能になっていると予想されていました。20世紀最大のSF作家、アーサー・C・クラークの描いた世界では、2001年にはもう完全に人間の上位互換としての汎用人工知能HAL9000が実現されているはずでしたし、80年代末の自動運転研究者も2000年頃までには完全自動運転が実現していると予想されていたようです。シンギュラリティ論で有名なレイモンド・カーツワイル氏は、2020年には人類はナノテクノロジー等によって不老不死を実現しているだろうという予測を立てていました。他の予測でも、自動車は空を飛びかい、上手くいけば時間旅行も可能となり、2021年には人類はあらゆる意味で時間的・空間的な制約から解き放たれると考えられていたようです。

 

 もちろん、当時の人々が予想したような夢の未来を我々が生きているわけではありません。我々は未だに自動車の免許(当然地上を走っています)を取らねばならず、日々の体調不良に悩まされ、雨の日には片手を犠牲にして傘を差さなければなりません。しかし、それでも昭和の御代に比すれば、遥かに便利な社会に生きていることは疑いなく、科学的な常識は人々に広く浸透し、『科学』という言葉の持つ力は年々強まっているように感じます。恐らくこんな時代に未だに本気で化物や幻獣の存在を信じている人は、ちょっとおかしな人として周囲から嘲笑の目で見られることになるでしょう。

 

 しかし。

 

 例外的にこんな時代になっても多くの人がその存在を信じ続けている化物がいます。それが『幽霊』です。幽霊を化物にカテゴライズすることに抵抗がある人もいらっしゃるかもしれません。現にあの柳田国男先生も幽霊と化物を峻別し、「特定の人に憑くのが幽霊、場所に憑くのが妖怪(化物)」という定義をしておられます。しかし、江戸時代の化物図巻を見てみると、そこに幽霊が描かれているのです。当ブログではもはやレギュラーである佐脇崇之の『百怪図巻』や鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にも、河童や山姥と並んで幽霊が記載されているのです。よって、少なくとも江戸時代頃までの人々からすれば、幽霊はあくまで化物の一つとしてカテゴリーされており、現代のように特別な地位が与えられていたわけではなかったと考えられます。

 

 しかし、現代社会を生きる人々の中には、化物の存在は否定するにも関らず、幽霊に対しては肯定的な態度を取る人が少なくありません。中には、成人を迎えているにも関わらず、幽霊の話に本気で怯え、話を聞くだけで夜眠ることができなくなる、という人も少なからずいらっしゃいます。

 

 もちろん、幽霊というのはその性質上、完全にその存在を科学的に否定することは(ほぼ不可能よりの)困難です。また、幽霊の存在は、ある意味では死後も意識や自我が存在することの希望にもなりますから、心情的にも全否定するのは難しいでしょう。よって、「もしかするといるのかもしれないな」と考えてしまうことは十分に理解できるのですが、本気で心の底から信じている人はやはり何かしらの問題があるように思えます。評論家であり、医学博士でもある加藤周一先生は、怪談話を楽しんでいた江戸の人々は、「夏の納涼」という目的のため、幽霊の存在を「弱く信じていた」のではないかと考察しておられます。ご慧眼という他ありません。

 

 人は怪異を「強く信じている」場合、それを「楽しむ」という方向には向くことはありません。社会学者の井上俊先生も『遊びの社会学』の中で述べておられるように、強く信じられた怪異は非常に「シリアスで過酷なもの」です。中世、終末預言を信じて自ら命を絶った殉教者たちは、到底預言を「楽しんでいた」と言えないでしょう。

 

 よって、幽霊話も「もしかしたらそういうこともあるのかもな」という風にゆるく信じて楽しむことこそが正道なのです。しかし、幽霊の存在を本気で信じている人にはそれをする余裕がありません。それではなぜ、人は現代になっても幽霊の存在だけは信じてしまうのでしょうか。

 

 前述したように、死後意識の存続を願う、ある種の肥大した自我が背景にある部分も大きいとは思います。また、亡くなった方が幽霊として傍にいてくれると思うことは、大切な人を亡くした方からすれば、大きな支えになることでしょう。しかし、どうもそうした心理的要因だけが問題ではないように思えます。現実問題として、我々は、度々幽霊を見てしまうのであり、幽霊にまつわる膨大な目撃談や体験談が存在します。こうした経験談こそが幽霊の存在にリアリティを与えているのです。

 

 しかし。

 

 国によっては、幽霊は存在しません。たとえばフランスやロシアといった国々では、幽霊の目撃談はほとんどないそうです。アフリカにも、幽霊などという概念をよく理解できない民族があるそうです。こう聞くと、なぜ日本やイギリス、中国といった国々に住まう人にだけ幽霊の体験談があるのでしょうか。答えは非常にシンプルです。それは、幽霊というのは解釈に過ぎないから、なのです。

 

 たとえば、我々日本人が樹海の中で浮遊する女性のようなモノを見てしまったとしましょう。日本人の多くはそれを「ここで自殺した女の霊だ」と解釈するはずです。しかし、同じものをヨーロッパの方が見たとすれば、それを「この森に住む悪魔だ」と解釈するかもしれません。

 

 このように、「よくわからないモノ」を見てしまうという現象自体は、万国共通で存在します。しかし、それを「幽霊と解釈するかどうか」は、文化によって異なるのです。森に現れた怪しいモノが幽霊なのか、悪魔なのか、精霊なのか、検証する方法は存在しません(もちろん大抵は単なる見間違いでしょうが)。では、実際に亡くなった知人を見た場合はどうでしょうか。それも、その人の幽霊ではなく、悪魔がその知人の姿を模倣して現れたと解釈しても特に不都合はないのです。

 

 よって、幽霊とは結局のところ解釈に過ぎないのです。解釈に過ぎないものをいるいないのフェイズで語ること自体がナンセンスです。解釈である以上、外野が何を言ったところで「幽霊を見たと解釈した人」はいるわけで、それを否定するのはただの暴力です。しかし、幽霊というものが客観的に存在するという証拠があるわけではないことを理解しておくことも必要です。人の死に関する話題というのは非常にデリケートなテーマです。大切な誰かを失った人も、その誰かが幽霊になってでも傍にいて欲しいと思う方もいれば、幽霊になんてならずにもう安らかに眠って欲しいと思う方もいるのです。そういう人たちに『幽霊はいる』と軽はずみに断定することは当然避けるべきでしょう。死とは不可知であるがゆえに、各々の解釈に託される問題なのです。