百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

赤ゑいの魚

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(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

「赤えいの魚」
この魚その身の尺三里に余れり。背に砂たまればをとさんと海上にうかべり。其時船人嶋なりと思ひ船を寄れば水底にしづめり。然る時は浪あらくして船是が為に破らる。大海に多し。
(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

 

 島だと思って上陸したらそれは生物の背中だった、という伝承は世界中に残されています。赤えいの魚もそのような島と見紛うほどに巨大な怪魚です。かつて、安房の国の野島ヶ崎というところに、又吉と佐吉という二人の船頭がおり、大船に乗って航海をしていたところ嵐に襲われ、船は漂流してしまいました。乗組員26名のうち3名が死に、生き残った23人は辛うじて一つの島に漂着しました。しかし、そこには人の姿はなく、ただ見慣れぬ草木が茂り、藻屑のようなものが散乱するばかりで、岩の窪みに溜まった水も全て塩水でとても飲めたものではありませんでした。結局、2、3里(1里は約3.9㎞)歩き回ったところで又吉たちは諦め、船に乗って謎の島から出航しました。その後、しばらく船を進めたところで、先ほどの島が海へと沈んでいくのが見えた、ということです。


 現実に存在する糸巻鱏(マンタ)の仲間には、全長6メートル、幅10メートルに及ぶものがあり、そうしたものからこの伝承が生まれたのだという話がありますが、赤えいの魚の3里(約12㎞弱)とマンタの10メートルでは文字通り桁が違います。しかし、たとえそれがキロメートル単位で巨大なものではなくても、やはり海に関する情報が乏しく、写真や映像も存在しない時代において、船乗り達が洋上ではじめて巨大な生物と遭遇した時の恐怖は想像を絶するものがあったと思われます。大赤鱏の群れが漁船の下を通る際などは、船の下に広がる海が真っ赤に染まるともいわれており、その鮮烈な視覚的インパクトが船乗り達にとって実際に体験した現実を遥かに上回る記憶となって、赤えいの魚のような伝承を生んだとしても決して不思議ではありません。最近では「海洋恐怖症」という言葉もそれなりにメジャーなものとなっており(筆者にもその気持ちは少しわかります)、あまりにも広大無辺な海や、そこに住む巨大な生物に対して、異様な恐怖を掻き立てられてしまう人がかなり多くいることもよく知られています。

 

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(海洋恐怖症の方が恐怖を覚える画像の例)

 

 また、妖怪ではない実際の「赤えい」は、その排泄口が女性器に似ていることから、「男を惑わす」ということで「傾城魚」という異名を持っています。「傾城の美女」とは、城主がその色香に惑い、城の財政を傾けてしまうほどの美女を指す言葉で、似た言葉に「傾国の美女」があります。妖怪研究家の多田克己先生は、「傾城魚」という名前から、その由来を知らない人々の間で「背中に城が乗るほどに巨大な魚がおり、それがある日突然海中に没して城を傾けるのだ」という伝承が生まれたのだ、と述べておられます。


 また江戸時代の医師である橘南谿(1753年~1805年)が、各地に伝わる奇談を集めた紀行文、『東遊記』の後編には「オキナ」なる大魚の話が出てきます(オキナの語源は「大きな魚」の意である、という説が一般的です)。オキナが海上に現れる際には、雷のような轟音が鳴り響き、それは30メートル以上もあるクジラを「まるでクジラが鰯を呑み込むが如く」呑み込んだといいます。また、海面に浮かんだオキナの尾ひれ背びれは、巨大な島々が浮かんでいるように見えた、といいます。まさに尾ひれがついたような信じがたい話ですが、赤えいの魚と同じような巨大魚の話が本邦ではそれなりに信じられていたことはなかなかに興味深いことです。


 さて、赤えいの魚についてさらに面白いのは、非常によく似た怪物が西洋にも伝わっているところです。その中で最も代表的な怪物は恐らく「クラーケン」でしょう。

 

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(Pierre Denys de Montfort『Colossal Octopus』)

 

 クラーケンは主に北欧の海で伝承される怪物です。私たちの認識では、クラーケンは参考画像のように、巨大なタコやイカのイメージが強いですが、実際に伝承されている姿は実に多様です。もちろんタコやイカのような頭足類のイメージで語られる伝承もあれば、甲殻類のような姿で描かれたり、巨大な海蛇のような姿で描かれることもあります。実際のところ、クラーケンの存在は古代から近世にかけての長きに渡って船乗りたちの「現実的な」恐怖であり、かつての船乗り達は海上で遭遇した様々な巨大な生物に対して「あれはクラーケンだ」というラベリングをしていたのかもしれません(だから伝承によって姿がまちまちなのだ、と思われます)。デンマークのベルゲン司教であるエリーク・ポントビタン(1698年~1764年)が、1752年から1754年にかけて出版した『ノルウェー博物誌』には、「クラーケンの背は約1マイル半(約2.4㎞)あり、その触手はどんな船をも呑み込んでしまう」という記述や、「クラーケンは墨のような液を出して、海を真っ黒に染める」という描写があり、ここに記された「触手」や「黒い液を出す」といったキーワードから「クラーケン=頭足類」というイメージが一般化したのではないかと思われます。


 しかし、今回私たちが注目したいのは、「頭足類としてのクラーケン」ではなく、「全長数キロにも及ぶ島のように巨大な怪魚」としてのクラーケンです。ポントビタンの記述におけるクラーケンは約2.4キロであり、島のように巨大なものです。また、デンマークの解剖学者であるトマス・バルトリン1616年~1680年)が1657年に刊行した『解剖学史』には、「ニーダロス(ノルウェー中部の都市の古名)の司教は、海上に島が漂っているのを見て、ミサの供物としてこの島を神に捧げようという敬虔な考えに至った。そこで彼は、祭壇をその島に設置すると、自らミサをあげた。奇跡か偶然かミサの間、クラーケンは微動だにしなかった。そして、ミサを終えた司教が岸に戻るや否や、島は水没し、その姿は見えなくなった」とあり、やはり島のように巨大なクラーケンの姿が描かれています。


 西洋の怪物に関しては、様々なゲームやアニメの所謂「元ネタ」として使われており、詳しい方も多いかと思われます。それに引き換え、筆者は西洋の怪物に関する知識と資料をほとんど持ち合わせていないので、無知が露呈する前にクラーケンへの言及は止めたいと思います(既に露呈しているかもしれませんが…)。しかし、島のように巨大なクラーケンの姿は、赤えいの魚と通じるところがあります。この記事の冒頭に掲載した『絵本百物語』の赤えいの魚の図像も、魚というよりは、「タコの表皮」のように見えます。どこかでクラーケンの話が、本邦に伝わったのでしょうか。しかし、『絵本百物語』の刊行は1841年であり、当時日本は鎖国中です。また、少なくとも前述の『ノルウェー博物誌』や『解剖学史』もまた、本邦の鎖国真っ只中に発刊されています。尤も、これらの資料よりも古いクラーケンに関する類話が、南蛮貿易の時期などに流入した可能性は十分にあります。もしくは赤えいの魚にしろクラーケンにしろ、(妖怪の常として)単に「原因のわからない事象に関する後付けの説明」だったのかもしれません。たとえば昨日まであったはずの島が消えている(実際は航路を間違えただけなのでしょうが)という事象に対して、「島が一夜で消えるはずがない。よって昨日見かけたあの島は巨大な魚だったのではないか」と人々が考えた結果、赤えいの魚やクラーケンのような、島のように巨大な怪物の伝承が生まれたという解釈もそれなりの妥当性を持つと思います。それに、たとえこうした巨大な海の怪物の伝承の元になるような何かがなかったとしても、あまりにも広大な「海」という異界と触れ合ううちに、「海には我々の想像もできないくらいに途轍もなく巨大な生物がいるはずだ」という想像を巡らすということは、文化の違いを超えて、人としてある程度自然で普遍的な心性であるようにも思います。

 

 しかし、そうは言ってもやはり「海は広いし大きい」のです。さすがに数キロに及ぶことはないでしょうが、海の中にはまだまだ我々の知らない超巨大生物が存在している可能性は十分すぎるほど残されているでしょう。江戸時代の地理学者である古川古松軒(ふるかわこしょうけん)はこのように述べています。

 

「かぎりなき大海なれば鯨を呑む大魚もあるべきなり」