百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

「鵼」

鵼は深山にすめる化鳥なり。源三位頼政、頭は猿、足手は虎、尾はくちなはのごとき異物を射おとせしに、なく声の鵼に似たればとて、ぬえと名づけしならん。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

 

 2006年に発売された『邪魅の雫』以来、約17年ぶりとなる百鬼夜行シリーズの新作長編『鵼の碑』が発売されました(筆者も全てのページを一ページずつ大切に拝読させて頂きました。京極先生、本当にお疲れ様です。そして本当にありがとうございました)。

 

 さて、本日はその記念(?)として、鵼(ぬえ)という妖怪(正確には鵼という名で知られている妖怪)についてご紹介させて頂きたいと思います。

 

 鵼は鵺、恠鳥、奴延鳥、などとも書きます。正確には鵼という名の妖怪はおらず、「鵼に似たような声で鳴く化物」なのですが、名前がないのは不便なので一般的には鵼という名称で呼ばれています。

 

 それでは本来の鵼とは何なのか、というところなのですが、これは少々複雑で、「声の主体として仮定された存在につけられた名称」です。トラツグミという鳥がいて、その鳥の鳴き声が非常に物悲しく不吉に聞こえるので、「鵼の鳴き声」と言われるようになりました。それでは「鵼=トラツグミ」なのかと問われると少し違います。

 

 なぜなら、トラツグミの声を「鵼の声」と呼んだ昔の人々は、その声をトラツグミという鳥の声だとは認識していなかったからです。夜中に聞こえる正体不明の不吉で悲し気な鳴き声、これを発しているのは何なのだろう、とその声の主体を想像した結果、創作されたのが「鵼」なのです。この辺りは筆者の拙い説明よりも京極先生の『鵼の碑』を引用した方がはるかにわかりやすいかと思いますので、引いてみましょう。

 

「(中略)では、虎鶫(トラツグミ)こそがヌエなのかと問えば、答えは否ですよ。虎鶫とヌエは、声を共有しているだけです」

「共有―ですか」

「はい。啼き声を取り違えられていたと云う鳥の事例は他にも幾つかあるようです。鳥に限らず―そう、地方に依っては蚯蚓(みみず)は鳴くと謂う。だが蚯蚓の声とされるのは実は螻蛄(けら)の出す音です。でも蚯蚓の正体は螻蛄だということにはならないでしょう」

京極夏彦『鵼の碑』)

 

 要するに昔の人は、夜中に聞こえる不気味な鳴き声は「鵼」という謎の化け物の出す声だ、と考えたわけですが、実際にはそれはトラツグミの鳴き声だったわけです。だからといって、トラツグミは謎の化け物なのか、といえばそうはならない。トラツグミはただの鳥ですからその等式は成り立たないのです。鵼=声から想像された謎の化け物、トラツグミ=声の正体である普通の鳥、というわけです。

 

トラツグミ

 

 なら、今回ご紹介する妖怪である鵼(と呼ばれる名前のない化け物)は、「トラツグミの声から想像された謎の化け物」なのかと言えば、これは違います(ややこしくてすみません)。

 

 なぜなら、鵼(と呼ばれる名前のない化け物)の伝承が語られた時点では、「鵼の声=トラツグミの声」であることを人々はもう周知していたからです。事態をわかりやすくするために時系列を整理すると次のようになります。

 

①人々が山中から聞こえる悲しげな声を聞く

②声の正体として「ヌエ」という化物を想像(創造)する

③実際にはその声は化け物ではなく鳥(トラツグミ)の声だと知れる

平安時代にヌエの声(トラツグミの声)に似た声で鳴く化物が現れる

⑤人々はこの④の化け物を鵼と呼ぶようになる

 

 筆者の認識が間違っている可能性もありますが、おおよそこのような流れです。今回紹介していくのは④の鵼(に似た声で鳴く名前のない化物)についてです(これ以降は面倒なので表記は「鵼」に統一します)。

 

 鵼は「平家物語」や「源平盛衰記」などといった文献に登場します。「平家物語」によれば、顔は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇(くちなわ)として描かれ、この姿が最も有名です(この記事の上図に引用した石燕の絵でもそのように書かれています)。しかし、文献によっては異同もあり、「源平盛衰記」では背が虎で、足が狸、尾が狐であるとされています。いずれにせよキメラのような見た目で、日本の妖怪ではかなり奇妙な姿をした妖怪と言えるでしょう。鵼に関する有名なエピソードは以下の通りです。

 

 仁平(1151-1154年)の頃、丑の刻になると東三条の森の方から黒雲が湧き出し、紫宸殿の上を覆い、その度に天皇が気を失うことがありました。高僧を呼んで祈祷を行うも効果はなく、武士である源頼政に黒雲を払うという使命が与えられます。頼政は家来である猪早太を伴い、黒雲に目掛けて矢を射ました。するとヌエのような声が聞こえ、黒雲が晴れ、化物が落ちてきました。その化物は猪早太によって刀で止めをさされましたが、頭は顔は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という奇妙な姿をしていました。化物の死体はうつぼ舟にのせられて流され、頼政は化物退治の功を認められて獅子王という剣を与えられました。

 

 このエピソードからもわかるように、やはり鵼には名前はなく、「ヌエのような声で鳴く化物」でしかありません。しかもこの「ヌエのような声」は実は化物の声ではなく、頼政が射た鏑矢の音だった、と考えられています(この話は『鵼の碑』で何度も登場していますが、以前から京極先生が対談などで度々言及しておられます。鏑矢の飛ぶ音はヌエの声(トラツグミの声)そっくりなのだそうです)。また、『鵼の碑』の中では、「頼政が黒雲に矢を放ったら、たまたま黒雲が晴れた。本来はそれだけの事件だったのだが、その後に黒雲の原因として創作されたものが鵼と呼ばれる妖怪だ」という説を採っています。

 

 妖怪はこのように「結果がまず先にあり、原因としてその存在が創造される」というケースが多々あります。たとえば「山に向かって叫ぶと声が返ってくる(結果)」という事態がまずあり、「これは幽谷響(やまびこ)という妖怪がいて、叫び返しているからだ」という原因が創造されます。また「男を知らないはずの女が妊娠した(結果)」という出来事があり、「河童に犯されたに違いない」という原因が創作されるわけです。

 よって『鵼の碑』に書かれているこの説はかなり説得力のあるものだと思います。しかし、この説が正しいとして、謎なのは鵼の姿です。どうして鵼は日本の妖怪には珍しキメラのような見た目をしているのでしょうか。猿、虎、蛇と聞いてまず思いつくのは干支でしょう。鵼は干支を組み合わせて何か(方角?)を暗示しているのかもしれません。しかし、そうだとしても「狸」の存在が浮いてしまいます。狸が干支に化けそこなった、ということなのでしょうか?どうもすっきりしません。それに前述したように鵼は他の姿で描かれることもあります(背が虎で、足が狸、尾が狐など)。鵼の本質は干支ではなく、「様々な獣(その獣自体が何なのかはさしずめ問題ではない)が合成されている」ことなのでしょうか?そうだとすれはこの化物は何を表しているのでしょうか。

 

 民俗学者小松和彦先生は、「鵼のエピソードには、武士政権への転換が示されているのではないか」と考察されています。たしかに高僧ではなく、武士が化物を退治するというのが印象的です。しかし、それでもやはり鵼の奇妙な姿に関しては説明されていません。また、鵼は「化鳥である」ともいいます。しかし、上図を見て頂いてもわかるようにどこにも鳥の要素はありません。精々鳴き声くらいのものです。

 

 鵼の本質、それは混じり合っていること自体にあるのではないでしょうか。鏑矢の音、トラツグミの声、トラツグミの声として仮想された謎の化物…。こうした諸々のファクターが混じり合って生まれたある種の捉えどころのなさ、その捉えどころのなさを図像化したものこそが鵼の姿であり、本質なのかもしれません。もしそうなのだとすれば、鵼の正体を考察するなど、野暮なことでしょう。