百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

狂骨

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鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』)

「狂骨」
狂骨は井中の白骨なり。世の諺に甚しきことをきやうこつといふも、このうらみのはなはだしきよりいふならん。
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』)

 

 

 狂骨もまた、具体的な伝承が存在しない(もしくは現状発見されていない)妖怪です。神奈川県の津久井郡では、「程度が激しいさま」や「けたたましい様」を意味する「キョーコツ」という方言がありますが、神奈川県において狂骨に関する伝承は残っていないようです。石燕はこの「キョーコツ」という言葉は、「狂骨という妖怪の恨みのはなはだしさからできた言葉であろう」と述べていますが、おそらく実情は、「キョーコツ」という言葉が先にあって、そこから石燕が言葉遊びで創作した妖怪なのではないか、という解釈が一般的です。


 1881年に刊行された鍋田玉英(明治の浮世絵師)の『怪物画本』には、狂骨とほぼ同じ図像をした「つるべ女」なる妖怪が描かれていますが、『怪物画本』自体が「鳥山石燕の妖怪画を模倣した李冠光賢の妖怪画をさらに鍋田玉英が模写したもの」であるため、妖怪伝承の原型を窺い知るための一次資料としては、あまり信用できるものではないようです。『怪物画本』では、一部の妖怪の名称が、なぜか石燕の百鬼夜行シリーズとは意図的に(?)変えられており(たとえば「木魅」は「相生松のせい」、「目競」は「大佛怪物」、「般若」は「葵の上」、といった具合です)、その真意はわかりません。ただ、「葵の上」などは、源氏物語の登場人物であり、六条の御息所の生霊に祟られる役回りです(なぜ「祟る側」の六条の御息所ではなく、「祟られる側」の葵の上が『怪物画本』に描かれているのかは興味深いところです)。「つるべ女」にも原型となった何かしらの伝承があったのでしょうか?

 

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(鍋田玉英『怪物画本』)



 話を狂骨に戻しましょう。妖怪研究家の多田克己先生によれば、狂骨にはたくさんの洒落(掛詞)が含まれているとそうです。たとえば、「髐骨(きょうこつ)」とは、白骨になることを意味します。また、「キョーコツ」という言葉は「素っ頓狂」なことであり、素っ頓狂とは、間が抜けていることも意味します。狂骨は骸骨だから、骨と骨の間がスカスカで間が抜けているため、狂骨の後ろの景色までよく見える(詞書にある「恨みがはなはだしい」と「裏見(うらみ)がはなはだしい」の洒落)ということではないか、さらに狂骨が「井戸に出る妖怪」という点には、「掬いきれない井戸の水」ということから、狂骨が「救われない怨念である」という洒落も読めるのではないか、と多田先生は述べておられます。何にせよ、詞書からも読み取れる通り、狂骨が言葉遊びの要素を多分に含んでいることに疑念の余地はほとんどない、と言えるでしょう。


 狂骨は筆者の大好きな妖怪で(好きな妖怪ばかりじゃないか、と思われるかもしれませんが、実際は「妖怪」という言葉の指し示す範囲があまりにも広すぎるため、妖怪の定義次第では、残念ながらそれほど興味の持てない妖怪もいます)、狂骨に関する何かしらの伝承が残っていないかを調べていた時期があったのですが、成果は上がりませんでした(上がっていればそれは結構な発見なのですが)。一応、2ちゃんねるの「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」のスレッドには「狂骨」なる怪談があります。短い話ですので全文を引用してみましょう。

 

 

喪女は死んでも喪女なんだなぁ、と思った昔話
その昔、福島県には狂骨という妖怪が出たそうだ。
狂骨は歩く女の髑髏であるという
この狂骨であるが、実は名前の響きの禍々しさとは裏腹に、全く悪さをしない。
ただ「歩く髑髏」なのだという
生前はあまりの醜さに誰にも相手されなかったが、死んで骨になってみると意外にスタイルがよかったことに気が付き、死後は自慢のスタイルを自慢するため、夜な夜なカタカタと音を立てながら一人ファッションショーを開催しているのだ
しかしこの狂骨は、高僧とか修験者のような霊的に強い人に出会うと、その場でカタカタと崩れてただの骨になってしまう
そしてその高僧や修験者が通り過ぎると、再びカタカタと人の形を為し、一人ファッションショーを再開するのだという
この狂骨の好物は獣や魚の骨であり、腹が減るとこれをしゃぶるそうだ
しかし、お盆には骨は生臭物であるからといって断食し、骨をしゃぶらなくなるという
そういうわけで人々はこの狂骨を
「なんといじらしく、慎ましい女の物の怪であろうか」
と言って特別嫌わなかったという
喪女は死んでも物の怪になっても、低姿勢で、控えめで、慎ましいのだなぁと妙に感心した昔話

(「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」より「狂骨」)

 

 

 これが実際に伝わっている伝承であれば非常に面白いのですが、残念ながらこの話は、作家の山田野理夫先生の名著『東北怪談の旅』、八十二番に記載された「骨女[青森]」とほとんど同じ内容になっています(青森が福島に変わってはいますが)。『東北怪談の旅』自体が、山田先生の創作を多く含む怪談集なので、ここでもまた、『怪物画本』の「つるべ女」の時と同じように「創作物のさらなる模倣」が行われてしまっているようです。


 狂骨は、深い恨みを抱いて死んでいった怨念のはずですが、なぜか妙にコミカルです。そもそも、石燕の描く狂骨の絵からして、どこかいじられ待ちをしているようなすっとぼけた顔をしており、とても深い恨みを持って死んでいったようには見えません。むしろそういう執着から解き放たれているようにさえ見えます。「はなはだしい恨みを持って死んでいった」にも関わらず、実際に狂骨が害をなすという話がないのは、骸骨になってしまった以上、生前の恨みなどもうどうでもよくなっているからなのかもしれません。洋の東西を問わず、骸骨というもの自体が、陽気でお気楽な存在として描かれる事が多いですが、それは煩悩の元である「肉体」が朽ちているからではないでしょうか(あらゆる欲情は肉体が無ければ湧いてきません)。

 

 多田先生は石燕はこう言いたかったのではないか、と言います。「肉体への執着こそが悟りを妨げるのであるなら、骸骨は肉体がないから、二重の意味で仏(悟った者と死体という意味)なのではないか」と。