百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

幽霊

f:id:hinoenma:20210709184134j:plain

鳥山石燕画図百鬼夜行』)

 

 気がつけば令和になって丸二年以上が経過し、西暦は2021年となりました。2021年といえば、昭和を生きていた人々からすれば、紛れもない『超未来社会』であり、当時の人々が想像するようなことはほとんど可能になっていると予想されていました。20世紀最大のSF作家、アーサー・C・クラークの描いた世界では、2001年にはもう完全に人間の上位互換としての汎用人工知能HAL9000が実現されているはずでしたし、80年代末の自動運転研究者も2000年頃までには完全自動運転が実現していると予想されていたようです。シンギュラリティ論で有名なレイモンド・カーツワイル氏は、2020年には人類はナノテクノロジー等によって不老不死を実現しているだろうという予測を立てていました。他の予測でも、自動車は空を飛びかい、上手くいけば時間旅行も可能となり、2021年には人類はあらゆる意味で時間的・空間的な制約から解き放たれると考えられていたようです。

 

 もちろん、当時の人々が予想したような夢の未来を我々が生きているわけではありません。我々は未だに自動車の免許(当然地上を走っています)を取らねばならず、日々の体調不良に悩まされ、雨の日には片手を犠牲にして傘を差さなければなりません。しかし、それでも昭和の御代に比すれば、遥かに便利な社会に生きていることは疑いなく、科学的な常識は人々に広く浸透し、『科学』という言葉の持つ力は年々強まっているように感じます。恐らくこんな時代に未だに本気で化物や幻獣の存在を信じている人は、ちょっとおかしな人として周囲から嘲笑の目で見られることになるでしょう。

 

 しかし。

 

 例外的にこんな時代になっても多くの人がその存在を信じ続けている化物がいます。それが『幽霊』です。幽霊を化物にカテゴライズすることに抵抗がある人もいらっしゃるかもしれません。現にあの柳田国男先生も幽霊と化物を峻別し、「特定の人に憑くのが幽霊、場所に憑くのが妖怪(化物)」という定義をしておられます。しかし、江戸時代の化物図巻を見てみると、そこに幽霊が描かれているのです。当ブログではもはやレギュラーである佐脇崇之の『百怪図巻』や鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にも、河童や山姥と並んで幽霊が記載されているのです。よって、少なくとも江戸時代頃までの人々からすれば、幽霊はあくまで化物の一つとしてカテゴリーされており、現代のように特別な地位が与えられていたわけではなかったと考えられます。

 

 しかし、現代社会を生きる人々の中には、化物の存在は否定するにも関らず、幽霊に対しては肯定的な態度を取る人が少なくありません。中には、成人を迎えているにも関わらず、幽霊の話に本気で怯え、話を聞くだけで夜眠ることができなくなる、という人も少なからずいらっしゃいます。

 

 もちろん、幽霊というのはその性質上、完全にその存在を科学的に否定することは(ほぼ不可能よりの)困難です。また、幽霊の存在は、ある意味では死後も意識や自我が存在することの希望にもなりますから、心情的にも全否定するのは難しいでしょう。よって、「もしかするといるのかもしれないな」と考えてしまうことは十分に理解できるのですが、本気で心の底から信じている人はやはり何かしらの問題があるように思えます。評論家であり、医学博士でもある加藤周一先生は、怪談話を楽しんでいた江戸の人々は、「夏の納涼」という目的のため、幽霊の存在を「弱く信じていた」のではないかと考察しておられます。ご慧眼という他ありません。

 

 人は怪異を「強く信じている」場合、それを「楽しむ」という方向には向くことはありません。社会学者の井上俊先生も『遊びの社会学』の中で述べておられるように、強く信じられた怪異は非常に「シリアスで過酷なもの」です。中世、終末預言を信じて自ら命を絶った殉教者たちは、到底預言を「楽しんでいた」と言えないでしょう。

 

 よって、幽霊話も「もしかしたらそういうこともあるのかもな」という風にゆるく信じて楽しむことこそが正道なのです。しかし、幽霊の存在を本気で信じている人にはそれをする余裕がありません。それではなぜ、人は現代になっても幽霊の存在だけは信じてしまうのでしょうか。

 

 前述したように、死後意識の存続を願う、ある種の肥大した自我が背景にある部分も大きいとは思います。また、亡くなった方が幽霊として傍にいてくれると思うことは、大切な人を亡くした方からすれば、大きな支えになることでしょう。しかし、どうもそうした心理的要因だけが問題ではないように思えます。現実問題として、我々は、度々幽霊を見てしまうのであり、幽霊にまつわる膨大な目撃談や体験談が存在します。こうした経験談こそが幽霊の存在にリアリティを与えているのです。

 

 しかし。

 

 国によっては、幽霊は存在しません。たとえばフランスやロシアといった国々では、幽霊の目撃談はほとんどないそうです。アフリカにも、幽霊などという概念をよく理解できない民族があるそうです。こう聞くと、なぜ日本やイギリス、中国といった国々に住まう人にだけ幽霊の体験談があるのでしょうか。答えは非常にシンプルです。それは、幽霊というのは解釈に過ぎないから、なのです。

 

 たとえば、我々日本人が樹海の中で浮遊する女性のようなモノを見てしまったとしましょう。日本人の多くはそれを「ここで自殺した女の霊だ」と解釈するはずです。しかし、同じものをヨーロッパの方が見たとすれば、それを「この森に住む悪魔だ」と解釈するかもしれません。

 

 このように、「よくわからないモノ」を見てしまうという現象自体は、万国共通で存在します。しかし、それを「幽霊と解釈するかどうか」は、文化によって異なるのです。森に現れた怪しいモノが幽霊なのか、悪魔なのか、精霊なのか、検証する方法は存在しません(もちろん大抵は単なる見間違いでしょうが)。では、実際に亡くなった知人を見た場合はどうでしょうか。それも、その人の幽霊ではなく、悪魔がその知人の姿を模倣して現れたと解釈しても特に不都合はないのです。

 

 よって、幽霊とは結局のところ解釈に過ぎないのです。解釈に過ぎないものをいるいないのフェイズで語ること自体がナンセンスです。解釈である以上、外野が何を言ったところで「幽霊を見たと解釈した人」はいるわけで、それを否定するのはただの暴力です。しかし、幽霊というものが客観的に存在するという証拠があるわけではないことを理解しておくことも必要です。人の死に関する話題というのは非常にデリケートなテーマです。大切な誰かを失った人も、その誰かが幽霊になってでも傍にいて欲しいと思う方もいれば、幽霊になんてならずにもう安らかに眠って欲しいと思う方もいるのです。そういう人たちに『幽霊はいる』と軽はずみに断定することは当然避けるべきでしょう。死とは不可知であるがゆえに、各々の解釈に託される問題なのです。