百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

迷い家

「マヨヒガ」

遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。

柳田国男遠野物語』)

 

 マヨイガ迷い家・マヨヒガ)とは、主に東北地方や関東地方に伝わる怪異です。有名な柳田国男先生の『遠野物語』に記載があり、いくつもの研究論考が存在するという風に学術的なフェイズで取り上げられるケースが比較的多い怪異でもあります。

 マヨイガについて最も有名な話は、紛れもなく『遠野物語』第六三段にある、三浦という家の嫁が体験したという怪異譚だと思われます。引いてみましょう。

 

 小国の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代目の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るゝ小さき川に沿ひて蕗ども終に人影は無ければ、もしは山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。

 此事を人に語れども実と思う者も無かりしが、又或日我家のカドに出でゝ物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之を食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツ(雑穀を収納する櫃)の中に起きてケセネを量る器と為したり。然るに此器にて量り始めてより、いつ迄経ちてもケセネ尽きず。家の者も之を怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。

 遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。女が無慾にて何物をも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしと云へり。

柳田国男遠野物語』)

 

 ここに語られる体験談によると、マヨイガは三浦という貧しい家が、現在のような村一番の物持ち家になった理由として語られています。マヨイガに紛れ込んだ三浦家の嫁が、マヨイガから流れてきた赤い椀を拾ったことで、三浦家は富み栄えるようになった、というあらましです。

 

 この話によるとマヨイガは、民俗学者小松和彦先生が『憑霊信仰論』の中で語った座敷童の話と同じく、「富の偏りを説明するシステム」として解することができます。

 

 かつての村落共同体社では、『貧富の差』というのは非常に不可解な現象でした。同じ村で生活し、同じような気候条件の下、農作物を育てているにも関わらず、特定の家にのみ富が集中するという事態の説明がつかなかったのです。そこで生まれたのが座敷童や憑き物筋のような富の偏りを説明するシステムだった、ということです。座敷童の住む家は栄えると言います。よって、「あの家には座敷童がいるから豊かなのだ」と解釈することにより、貧富の差を説明しようとするわけです。逆に豊かであったはずの家が急に没落した場合は「座敷童が出ていったのだ」とすることで説明することが可能です。

 

 こうした解釈に基づくのであれば、マヨイガもまた、三浦家の隆盛の理由を説明するための機能を果たしていると考えられるでしょう。「あの家が栄えているのは、昔、あの家の嫁がマヨイガに迷い込んだからだ」ということです。

 

 さて、ただしマヨイガは単なる富の偏りを説明するために生まれた説明体系に過ぎない、とは言い切れないような節があります。同じく『遠野物語』の六四段には、別の男がマヨイガに迷い込む話が掲載されています。しかし、この話では、この男の家は特に富み栄えるわけではないのです。引いてみましょう。

 

 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某かゝが家に娘の聟を取りたり。此聟実家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小国の村里に出でたり。

 小国にては此話を聞きて實とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来り長者にならんとて、聟殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奥に入り、こゝに門ありきと云ふ処に来れども、眼にかゝるものも無く空しく帰り来りぬ。その聟も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。

柳田国男遠野物語』)

 

 マヨイガの伝承は、マヨイガにある物を持ち帰ることで、その者に富をもたらす」というものです。しかし、この話によると、男はマヨイガの物を何も持ち帰らなかったため、特に金持ちになることもなかった、という話で締められます。また、興味深い点としては、再びマヨイガのあったはずのところに訪れても、そこには何もなかった、という話が付け加えられていることです。よって、この段では、マヨイガは富の偏りを説明するシステムとしての側面を失い、単なる異界探訪譚のようなものとして語られています。

 

 男が夢を見ていた、嘘をつていた、もしくは二度目に訪れた時は単に道を間違えた、など合理的な解釈はいくらでも可能です。実際「山中で人のいない美しい家に行きあった」というのは、刺激の強い怪談に慣れた現代人からすれば、怪談と呼ぶことさえできないかもしれません。

 

 しかし、面白いのは「数多の牛馬鶏がいた」点や「紅白の美しい花が咲き乱れていた」点です。美しい花が咲き乱れる景色というのは、現代においてもまだ死後の世界や異世界の記号として十分に機能しています。少し前に水曜日のダウンタウンという番組で、「泥酔して目覚めた時、そこがお花畑だったら人は自分が死んだと思うのか」という説を検証していました。このように、「花畑=彼岸」というイメージはまだまだ根強いのでしょう。

 

 ただ、「牛馬鶏が多数いた」というのは、現代の異界探訪譚からすれば、些か牧歌的すぎるような気がします。むしろ、この部分は現代人から見れば、ある種の異界性を軽減する働きをしているとさえ言っていいでしょう。現代における有名な異界探訪譚である「きさらぎ駅」などの異界駅シリーズにも、家畜動物たちがのんびり暮らしている描写はまずありません(そんなシーンがあれば、読者の恐怖はかなり和らぐはずです)。この辺りの描写や、(少なくとも伝承にある限りは)何の代償も要求せずに人に富を与えるという属性から、マヨイガは「恐ろしい場所としての異界」ではなく、極楽などの「人が憧れる場所としての異界」の属性を強く持っていると言えるでしょう。

 

 マヨイガの正体は不明です。実際にそういう家があったのかもしれませんし、体験者は本当に異界に迷い込んだのかもしれません。もしかすると狐に化かされていたのかもしれません。しかし、このマヨイガの話はなぜか多くの人を魅了するらしく、数々の創作に取り上げられています(今月にも『岬のマヨイガ』というアニメ映画が公開される予定とのことです)。異世界転生モノなどが大流行するご時世です。異界への憧れはますます強まっているように思います。また、異世界転生モノに惹かれるほど露骨ではなくとも、このソリッドすぎる現実に疲れた多くの人々は、この世とは少しだけ別の理を持った異界の切れ端に、憧憬を感じるかもしれません。