百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

カイナデ

「カイナデ」

京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所に行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。

(村上健司『日本妖怪大事典』)

 

 皆さんは小学生の頃、「トイレから手が出てきて尻を撫でられる」という怪談を聞いたことはないでしょうか。そのルーツとなったのがこのカイナデという妖怪です。どのような字を当てるのかはわかりませんが、「腕」という漢字は「かいな」とも読むので、もしかすると「腕手」で「カイナデ」なのかもしれません。もしくは「腕撫」でしょうか。どちらにせよ、名前から想像できるように、手だけの妖怪である(と少なくとも認識されている)ようで、その全容が語られることはありません。地域によっては河童の仕業とされることもありますし(余談ですがダウンタウン松本人志さんも、少年時代、自宅のトイレから河童の手が出て来るのを目撃したという話をされていました)、慶長の頃には「黒手」と呼ばれる似たような妖怪の話も伝えられています。

 

黒手[くろて]『四不語録』にある妖怪。

 慶長年間(一五九六年~一六一五年)、能登国(石川県)郡主長如庵の臣・笠松甚五兵衛の屋敷で、夜に便所へいくと何者かに尻を撫でられるということがあった。甚五兵衛は狐狸の類かと思い、短刀を持って便所で待ち構え、出てきた毛むくじゃらの黒い手を切り落とした。

 手は箱に入れて保管しておいたのだが、まもなく三人の行脚僧に化けた、黒手の化け物どもが家を訪れ、まんまと奪い返されてしまった。

 後に甚五兵衛が夕暮れの道を歩いていると、突然空から衾のようなものが舞い降りてきて、甚五兵衛を包み込んで、宙に浮かんだ。2mも上がったところで下に落とされた甚五兵衛が、不思議に思って懐を探すと、先日の黒い手を切り落とした短刀が奪われていたという。

(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

 このように便所から手をだして人の尻を撫でる妖怪は、江戸の昔からそれなりにポピュラーな存在だったようです。こうした怪異に合理的な解釈を下すのは比較的容易です。昔の便所は現在の水洗式とは異なり、所謂「汲み取り式」ですから、実際に人が潜むことは不可能ではありませんし、現実に変質者が便所の下に潜んでいたという実例もあります。『糞尿とその匂いに塗れてまで尻を撫でたい』というのは、なかなか想像し難い恐ろしい執念ですが、物理的には問題なく実現できてしまいます。ただ「猫娘」の記事にも書いたように、そういう常軌を逸した変質者は、江戸のご時世は人間とは思われない傾向があったので、犯人として架空の化け物が創造されたり、尻子玉を好む河童が冤罪を被ることになったのかもしれません。

 

 さて、本来家庭内の怪異であったはずのカイナデですが、いつしか学校の怪談へと変質していったようです。1942年時点では、大阪市立木川小学校で既に学校の怪談として伝えられており、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という声が聞こえ、それに対して何かしら返事をしてしまえば、尻を撫でられる、という話が存在していました。「女子便所」に限定されているあたり、以前よりもさらに変質者の犯行であることを匂わせます。

 

 ただ、この噂には、「節分の夜」というキーワードが消失しており、また「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という本来人間が唱えるはずの呪文が、化物の発する言葉として語られているところが興味深い点と言えるでしょう。村上健司先生は『学校では夜に便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件は消えてしまったのだろう』とした上で、「節分の夜」というキーワードの重要性を説いておられます。

 

 節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には紫姑神という便所神の由来を説く次のような伝説がある。

 春陽県の李景という県知事が、何媚(何麗卿とも)という女性を迎えたが、本妻がそれを妬み、旧暦正月15日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという。

(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

 村上健司先生は、紫姑神だけを日本の便所神のルーツとすることは安易であると警告しつつも、影響を受けていることはたしかであるとおっしゃっています。実際のところ、紫姑神はカイナデだけではなく、現代に残る学校の怪談にまで大いに影響を与えています。たとえば一人神である紫姑神への供え物として赤い紙と白い紙でできた紙人形をお祀りするのですが、これはそのまま「赤い紙やろか、白い紙やろか」というカイナデ撃退の呪文に通じます。また、赤と白というコントラストは、「トイレの花子さん」の赤いスカートと白いブラウスという服装に通じるもがあります。また、紫姑神は厠の戸を叩く回数で未来を予言すると言われ、これもトイレのドアを規定の回数ノックすることで未来を占ってくれるという花子さんの話そのものです。また、紫姑神はそのまま「紫の姑」であり、ムラサキババアでもあるのです。何媚は読書家で学問に熱心な女性という話が伝わっています。そうしたイメージから、紫姑神は学校の怪談へと取り込まれていったのかもしれません。

 

 しかしカイナデの「尻を撫でる」という行為は怪異としては些か弱い、と言わざるをえないでしょう。もちろん不気味ではありますがそれだけです。よってカイナデの話はどんどん過激なものへと変わっていきます。たとえば、「赤い紙、白い紙」と言われる怪談があります(地方によっては白い紙ではなく、青い紙のこともありますが、赤い紙の方は比較的どこでも不変のようです)。話の概略としては、学校のトイレで用を足していると、どこからか「赤い紙はいらんか、白い紙はいらんか」と問われ、それに対して赤と答えれば血まみれになって殺され、白と答えれば血を抜かれて殺される、というものです。どっちで答えても殺されるなら、どうやってこの怪談が伝播したんだよ、というマジレスはともかく、非常に有名な怪談なので、特に怖い話に興味のない方でも聞いたことがあるかもしれません。尻を撫でるだけだったはずの怪異が殺人まで犯すようになった心境の変化には興味がありますが、実際のところ人はどんどん過激でグロテスクな怪談を求めていくということなのでしょう。

 

 しかし現在はこうした学校の怪談・トイレの怪談は現在急速に減少しつつあります。そもそも、怪談が広く伝播する背景には「恐怖への共感」がなくてはなりません。この話については『文車妖妃』の記事で言及しているので、あらためて詳述することは避けますが、現代の日本では大半のトイレはもはや清潔な場所であり、昔の人々が思っていたような怖くて臭い不気味な場所ではないのです(実際、トイレの個室が憩いの場所であり、いつまでもトイレで時間を潰してしまうというサラリーマンも多いようです)。だから、たとえトイレの怪談を聞いたところで多くの人は共感することができません。そして共感を得られない話は広まることもないのです。それよりは、どんなデマゴギーもまかり通ってしまうほどにメディアの信用が失墜した現在、荒唐無稽な陰謀論のような都市伝説のほうが遥かに人々の共感を集め、影響力を持っています(実際、今回の疫禍や某国の大統領選により、かなり無理のある陰謀論でも容易に一定の支持を集めてしまうことが実証されてしまいました)。

 

 もちろん、盲目的に過去を美化し、現代を批判するのは非常に偏狭な見方です。実際問題として、現在の社会では犯罪率は低下の一途をたどっていますし、不当な長時間労働に悩まされる人の数も減りつつあります。また、便利なガジェットや様々なニーズに応えられるような土壌も整ってきました。トイレだって清潔になるに越したことはありません。しかし、少なくとも怪談として語られる妖怪たちからすれば、あまり幸福な時代であるとは言えないのかもしれません。