百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

塗佛

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鳥山石燕画図百鬼夜行』より「塗仏」)

「塗仏」

鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に、目玉を飛び出させた人間が仏壇から出てきたような形で描かれている。石燕は何も解説をしていないため、どのような妖怪かは不明である。

(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

 石燕の記した妖怪たちの中には、古くからその姿が伝わってはいるものの、具体的な伝承が完全に消滅してしまっている妖怪がいます。うわん、おうに、赤舌、わいら…そして塗仏(ぬりぼとけ)もまたそのような妖怪の一つです。

 

 塗仏は筆者が最も興味があり、子どもの頃から折に触れて調べ続けている妖怪でもあります。この妖怪は調べれば調べるほど「よくわからないモノ」なのです。冒頭の引用文で村上健司先生がおっしゃるように、塗仏がどのような妖怪であるかは現時点では全く不明です。作家の京極夏彦先生は、大陸文化の影響という観点から、妖怪研究家の多田克己先生は字解きの観点から、それぞれ塗仏の説明を試みておられましたが、やはりお二方とも、自説が決定打に欠けることを認めておられます。しかし、塗仏は不落不落や文車妖妃のように、石燕のオリジナル妖怪というわけではありません。石燕よりさらにさかのぼった佐脇崇之の『百怪図巻』(1737年)や、もっと古い『化物づくし』(鳥羽僧正(1053年~1140年)真筆と言われていますが真偽のほどは定かではありません)などにも塗仏の姿が描かれているからです。特に、『化物づくし』が本当に鳥羽僧正の作品なのであれば、塗仏は少なくとも平安の昔から伝わっていた妖怪ということになります。また、歌川国芳の弟子であり、江戸末期から明治期にかけての天才浮世絵師、河鍋暁斎も塗仏を描いており、塗仏はかつての日本ではそれなりにメジャーな妖怪であった、という可能性があります。

 

 

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河鍋暁斎『塗仏』)

 


 さて、塗仏が謎の妖怪である所以はいくつかあるのですが、まず第一に描かれた作品によって、塗仏の見た目が大きく異なることです。たとえば、百怪図巻』の塗仏は、背中に魚の尾びれのようなものがついています。これは石燕の絵からは確認できない特徴です(冒頭の画像参照。石燕の絵では塗仏の下半身は仏壇で隠れており確認できない)。ただ、石燕の塗仏も、『百怪図巻』の塗仏も、暁斎の塗仏も、「目が飛び出ている」という共通点はあるようです。しかし、民俗学者湯本豪一先生が所蔵している『化物づくし』(作者不詳)では、塗仏は大日如来の印を結んだ黒い仏のような姿で描かれており、特に「目が飛び出ている」わけではないのです。こうなってくると、「塗仏として描かれている妖怪の図像」の共通点らしきものは「名前」と「黒い姿」ぐらいしかないということになってしまいます。

 

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(佐脇崇之『百怪図巻』より「塗仏」)

 

 

 昭和期に発刊された数々の妖怪関連の書籍においては、「塗仏は仏壇の掃除を怠る怠け者を驚かす妖怪」という説明が加えられることが多いのですが、これは石燕の絵からの連想であり、実際にそうした伝承が残っているわけではないようです。

 

 また、民俗学者の藤沢衛彦先生は、『妖怪画談全集 日本編』において、石燕の描いた塗仏の絵を引用し、「塗仏は付喪神(器物の精が妖怪化したもの)の一種である」という説明をされていますが、実はこの説もかなり怪しいものです。もしも塗仏が付喪神であるのなら、当然名前の通り仏像が妖怪化した存在ということになるのでしょうが、石燕の描いた塗仏の背後にはきちんと本物の仏像の一部が別に描かれているのです(冒頭画像参照)。「塗仏は仏像ではなく、位牌が妖怪化したものだ」という解釈もありえなくはないでしょう。しかし、もちろん例外はありますが、付喪神とは基本的に元の器物の特徴が妖怪の姿にそのまま反映されているものです(たとえば有名な唐傘お化けを想像して頂ければ明らかなように、唐傘お化けは誰がどう見ても傘そのものですし、このブログでご紹介した不落不落は提灯そのものです)。それに対して塗仏はどう見ても位牌には見えないので、塗仏を付喪神と解釈するのは少し苦しいように思います。

 

 それでは、妖怪研究家の多田克己先生に倣い、字解きを試みてみましょう。塗仏に使われている漢字は「塗」と「仏」です。漢字学者の白川静先生の『字通』によると、「塗」という漢字の説明に、以下のような類例が書かれています。

 

「塗り籠めることは呪禁の方法として用いられ、殯(もがり)の時に棺に死体を収めて塗り籠めることを塗殯(とひん)という。」

 

 古来より日本人は、死そのものよりも死に際して付随する「目に見えないモノ」を恐れていました。たとえば縄文時代の屈葬は我々の先祖が死者にそうした「モノ」が取り憑き、死体が活動することを恐れていた一つの証左です。塗殯とは、死者を封印し、そうした「モノ」が死体に取り憑いて活動しないようにすることが目的であったのです。

 

 次に「仏」という言葉を見ていきましょう。「仏」という言葉には、仏陀や仏像、如来や菩薩などを表すと同時に、単純に「死者」を表す場合もあります(現代でも刑事ドラマなどで、死体のことを「ホトケさん」と呼びます)。つまり、「塗」という漢字も「仏」という漢字も、どちらも死者を暗示していることになるのです。

 

 また、前述したとおり、あらゆる塗仏の図像は真っ黒な身体をした存在として描かれています。黒とは昔から「黒不浄」といい、死の穢れを表す色でもありました。さらに「死」という言葉を直接使うことは縁起が悪かったので、かつての日本人は「死ぬこと」を表す際に「目出度くなる」(往生した)という隠語を使っていました。また「目出度い=目出鯛」という洒落から、塗仏には尾びれのようなものがついているのかもしれません。目が飛び出ている真っ黒な塗仏は、字解きの観点から考えた場合、まさに「目出度くなった」(死んだ)「黒不浄」(死そのもの)であり、「死者」(あるいは死そのもの)を暗示しているというのは、ほとんど間違いないでしょう。

 

 作家の京極夏彦先生は、小説『塗仏の宴』の中で、「塗仏は大陸由来の妖怪で、三星堆(さんせいたい)遺跡の縦目仮面と関係があるのではないか」という説を提唱しておられます。三星堆遺跡とは、紀元前三千年頃に栄えたとされる、長江文明に属する古蜀文明の遺跡です。確かに我が国に古くから伝わる妖怪の起源には、大陸文化の影響と不可分であるものが多く存在します。最も有名な妖怪である河童もまた、そのルーツに渡来人系技術者の存在があることは疑うべくもありません。それ故、塗仏の起源が、三星堆遺跡の縦目仮面であるという説はありえないことではありません。また、塗仏が三星堆遺跡、すなわち長江文明をルーツとしているのなら、長江文明=川の民」であることを暗示する名残として、塗仏の図像に魚の尾びれが描かれていた理由も納得ができます。しかし、この説では塗仏最大の特徴である「真っ黒な身体」について説明することができません。さらに、紀元前三千年頃に存在した縦目仮面が本邦に伝わり、さらにそれにまつわる妖怪伝承が徳川の時代まで生きていたというのはやはり可能性として高いとは言えないでしょう。京極先生自身もおっしゃっているように、やはり決定打に欠ける説ではあるのです。

 

 さて、塗仏に関する伝承は存在しない、と書きましたが、実は塗仏に「関係しているかもしれない」伝承は存在しています。それは『諸国百物語 巻の二』の「豊後の国、某の女房、死骸を漆で塗ったこと」です。下に概略を記します。

 

 

 かつて豊後の国にいたある男は17歳の若い妻をもらい、二人は深く愛し合っていた。男はよく妻に「もしそなたが死んだら、私は二度と妻を娶らない」と言っていたが、実際に妻は亡くなってしまった。妻はいまわの際に「私が死んでも土葬火葬は不要です。私の腹を裂き、内臓を取り出して代わりに米を詰め、上を漆で十四遍塗り固め、表に持仏堂(ここでは仏壇を安置する建物のこと)をこしらえ、私をその中にいれて鉦鼓を持たせてください」と言い残していたので、男は妻の遺言に従った。しかし、男は生前の妻との約束を破り、新たな妻を娶った。しかし、その新妻はしばらくすると「暇をください」といって家を出て行ってしまった。その後何人の妻を取っても、必ずしばらくすると「暇をください」と言って彼女たちは出て行ってしまうのだった。

 そして、ある日のこと。男が外出をしている間、男のまた新しい妻は女御達と談笑をしていた。すると外から、鉦鼓の音が聞こえてくる。女たちは驚き、戸に鍵をかけると、外から「ここを開けろ」という声が聞こえてくる。怯え切った女たちは戸を開けられずにいると「ここを開けないなら仕方ない。しかし、今日あったことは絶対に夫に言うな。もし言えば命はない」という声が聞こえ、鉦鼓の音は遠のいていった。あまりのことに怯えながら戸の隙間から外を見ると、鉦鼓を鳴らしながら真っ黒な女が立ち去っていくところだった。

 その翌日。妻は夫に理由を話さずただ「暇をください」と言った。しかし、男があまりにも理由を聞くので、昨日の出来事を話してしまった。そして数日後。また夫が外出している夜に、例の鉦鼓が聞こえ、真っ黒な女が妻の元へ現れた。その女は「あれほど言ったのに、もう夫に話してしまったのですね」と言うと、妻の首をねじ切り、殺してしまった。

 帰ってきた男は妻の死を聞き、嘆き悲しんだが、女御達から仔細を聞いて、元妻の遺体が安置してある持仏堂へ向かった。そして、持仏堂の戸を開けると、仏壇に安置された漆黒の女の骸の前には、新妻の首が置いてあった。怒りに駆られた男が、仏壇から真っ黒な女の死骸を引きずり出すと、突如としてその目が飛び出さんばかりに開かれ、男は首を食い切られて絶命した。

 

 『諸国百物語』は1667年に刊行された作者不詳の怪談集です。石燕の『画図百鬼夜行』より百年も前に書かれた怪談集であり、石燕がこの怪談の影響を受けて塗仏の絵を描いた可能性はかなり高いと考えられます。その証拠に、石燕の描く塗仏の前には鉦鼓が落ちています(冒頭の画像参照)。そして、石燕の絵の塗仏は、まるで「私がいるのに」とでもいわんばかりに自分自身を両手で指さしているのです。このポーズは見ようによっては、次々と新たな妻を娶る夫に対して、自分の存在をアピールしているようにも見えます。この怪談には、「黒い死体」「鉦鼓」「仏壇」「漆を塗りこめる」「開かれる目」など、塗仏を連想させるキーワードが散見されます。少なくとも石燕の塗仏は、この伝承をベースにしている可能性が高いのではないでしょうか。

 

 実際、仏壇にまつわる怪談と言うのは、現在でもよく語られます。「新耳袋」などに代表される、所謂「実話系怪談集」では、「仏壇から老人が出てきた」とか、「仏壇を開けると真っ黒い闇が渦巻いていた」などいった仏壇にまつわる怪談は、頻繁に収録されています。

 

 死者であり、死そのものである塗仏は、仏壇の怪異なのでしょうか。そうだとすると、塗仏はこの現代社会でもまた、形を変えて多くの人に恐怖を与え続けているのかもしれません。

 

 ただ。

 

 もしそうだとするとまた今度は魚の尾びれのようなものに関する説明がつかなくなってしまうのですが。