百怪風景

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文車妖妃

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鳥山石燕『画図百器徒然袋』

「文車妖妃」
歌に、古への文見し人のたまれやおもへばあかぬ白魚となりけり。かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし。まして執着のおもひをこめし千束の玉草には、かかるあやしきかたちをもあらはしぬべしと、夢の中におもひぬ。
鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

 

 文車妖妃(ふぐるまようひ)は鳥山石燕の『画図百器徒然袋』に描かれた妖怪です。実際に伝承が存在する妖怪が多く描かれた『画図百鬼夜行』などとは異なり、『画図百器徒然袋』は基本的に石燕の創作した妖怪たちが描かれていると言われています(『画図百器徒然袋』に描かれた妖怪画の詞書は、「夢の中におもひぬ」や「夢のうちにおもいひぬ」で終わっており、それらの妖怪が石燕の想像したものであることが示唆されています)。しかし、それらは完全な創作ばかりというわけでもなく、元になった古典や説話が存在します。


 たとえば、『諸国百物語』のなかには、「艶書の執心、鬼と成りし事」という話があります。ある寺に美しい稚児がいて、彼の元に恋文が届きましたが、彼はそれらの恋文を縁の下に捨て続けていました。するといつしか縁の下に捨てられていた恋文に宿った執念が火となり鬼となり、寺を訪れる人々を襲い、稚児の懐へと入った、というのです。また、兼好法師の『徒然草』の第七十二段には、「賤しいものは不必要に物の数の多いことである。しかし、多くて賤しからぬは、文車の中の書物、塵塚(ごみ捨て場)の塵である」という内容の記載があります。石燕がこの記述を参考に文車妖妃をデザインしたことは間違いなく、「賤しからぬもの、ということは高貴なものなのだろう」と洒落て、文車妖妃に貴族女性のような服装をさせているわけです(また、『百器徒然袋』では、文車妖妃の直前に塵塚怪王という妖怪が描かれており、「塵塚の塵」を高貴な存在である「王」として描いています)。


 それでは、文車妖妃の詞書について解説していきましょう。まず、文車とは書籍や手紙を収納して運ぶ、板張りで屋形付きの小車です。詞書のはじめには、「歌に、古への文見し人のたまれやおもへばあかぬ白魚となりけり。かしこき聖のふみに心をとめしさへかくのごとし」とあります。妖怪研究家の多田克己先生によれば、ここでいう「古への文見し人」とは日本に『論語』や『千字文』を伝えた王仁(わに)のことであるそうです。また、白魚(しみ)とは、本を食べる虫のことであり、本ばかり読んでいる人を指す「本の虫」の語源にもなっています。石燕は「古の読書人である王仁の書物や、尊い僧の手紙や経典でさえも、汚い虫食いの状態になってしまう」、つまり「どれだけ素晴らしい内容の書物であっても、時が経てば汚れたものへと転じてしまうこと」を言っているわけです。ありがたい経典でさえ、そうなってしまうのですから、「執着のおもひを込めし千束の玉草(無数の手紙のこと)」は、どれほど怪しいものへと転じてしまうのでしょうか。特に恋文には報われなかった数多の妄念が込められています。行き場を失い、幾重にも積み重なった手紙に込められた想念は、やがて怪をなしても不思議はない…そうした石燕の想像から生まれた妖怪がこの文車妖妃なのです。


 さて、私事ですが筆者は古典的な妖怪や、地方に伝わる古い伝承・怪談を愛している一方で、現代社会で語られる怪談もまた収集しています(学生時代はひっそりと民俗採集の旅に出かけることがささやかな楽しみでした)。すると、否が応にもある場所を舞台とした怪談が非常に多いことに気付かされます。それはSNSに代表される電子空間です。「SNSであった怖い話」というのは、もはや一つのジャンルとして確立されているほどです。文化的な話になりますが、怪談というものは(正確にいえば「広く語られている」怪談というものは)、基本的にその時代の社会や文化を反映するものです。ひと昔前までは「トイレにまつわる怪談」は学校の怪談のスタンダードとしてよく語られていましたが、最近ではめっきり語られることはなくなってしまいました。その最大の理由は、現代に生きる我々が「トイレという場所に恐怖感を覚えなくなった」からです。昔のトイレは暗く、非常に不気味な場所でした。汲み取り式のトイレに至っては、強烈な悪臭の立ち上がる真っ黒な穴がぽっかりと開いていて、そんなおぞましい穴に向かって下半身を露出し、暫くの間無防備な姿勢を取らなくてはならないのです。よって、トイレに対する不気味さや嫌悪感は、多くの人々(主に学校の怪談の語り手であった子どもたち)に共有されている感情であり、それゆえにこそ「トイレの怪談」はある種の共感を伴う恐怖として多くの学校で流布し、子どもたちの口の端に上ってきたのです。しかし、現在はどうでしょう。ほとんどのトイレは水洗で、明るく清潔です。むしろトイレの個室を「憩いの場」と感じ、休憩時間はトイレで時間を潰す人さえ多い時代になっています。そんな時代において、トイレの怪談は(たとえそれが事実であったとしても)かつてほど人々の共感を得ることができず、結果的に広く語られることはなくなっていったのです。


 しかし、現在、SNSにまつわる怪談が実に広く語られています(SNS怪談は幽霊などが登場する超常的な恐怖よりも、人間によって引き起こされる恐怖、いわゆる「ヒトコワ」系の怪談が主題になりがちなことも見逃せません)。これは多くの人々が、SNSというシステムが持つ不気味さに潜在的な恐怖を覚えていることを示唆しており、筆者としてはむしろ健全なことのようにさえ思えます。しかし、そうした潜在的な恐怖が我々をSNSの呪縛から解き放ってくれるほどの力を持っていないこともまた事実です。


 令和の世に生きる我々は、手紙で思いを伝えあうことはほとんどありません。私たちは手紙ではなくSNSで思いを伝えます。好きな異性への気持ちをLINEに乗せて発信し、ドロドロした感情や自己顕示欲をTwitterで発散し、承認欲求をInstagramで満たします。現代人の執心は、手紙を山積みにした文車にではなく、電脳世界にこそ蓄積しているのです。文車妖妃は、活動場所を電脳空間に変え、新たな怪異を引き起こし続けているのかもしれません。