百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

コトリバコ【壱】

「コトリバコ」
島根県のある地域に伝わるという怪異で、木が複雑に組み合わさってできた二〇センチ四方ほどの大きさの木箱という様相をしている。本来は「子取り箱」と書く物体で、その正体は呪い殺すために作られた一種の武器だという。この箱が近くにあるだけで、女性や子どもは次第に内臓が千切れていくという恐ろしい形で殺されることになる。
(朝里樹『日本現代怪異事典』)

 

 

(注意:今回はいつもの簡単な妖怪紹介・考察記事とは異なり、2ちゃんねるの怪談「コトリバコ」を、「あくまで実際にあった話」として考察したものになります。相当な分量になるので記事が一度で完結しない上、「コトリバコ」本編を読んでいない方にはほとんど理解できない内容となっています(もちろん、必要に応じて引用・解説を行いますが、それでも限界があります)。なのでもし「コトリバコ」本編を読んでいない方がいらっしゃれば、先にそちらをお読みくださるようお願いします。また便宜上、記事内では「コトリバコ」の怪談を「全て実話」として扱っておりますが、筆者自身、この怪談は創作であると信じていることを予めお断りしておきます。)

 

『コトリバコ』本編(「恐怖の泉」様)
https://恐怖の泉.com/kaidan/4wa.html

 

 「コトリバコ」は2ちゃんねるオカルト板『死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?99』スレッドに2005年6月6日に書かれたものが初出と思われる長編怪談です。非常に有名な怪談であり、現在に至るまで様々な媒体で語り継がれ、いくつもの二次創作が派生し、多くのサイトで考察がなされています。「コトリバコ」の内容全てを詳説していくと途方もない分量になってしまうため、今回の記事は読者の皆様が全員「コトリバコの本編を一読している」という前提で進めさせていただくことを先にお詫び申し上げます。


 さて、コトリバコは最後まで読んでも解明されないいくつもの謎が残っています。初めに本考察において登場する主要な人物と、本文中における特に大きな謎を列記していきたいと思います。

 

・語り手…投稿者。コトリバコを伝えたAAと同じ姓を持つ。三十歳手前の男性。

・M…この物語の主役である男性。語り手の友人。実家がとある神社を営んでいる。

・S…家の納屋でコトリバコを発見した女性。語り手やMの友人

・K…Mの彼女。

・AA…1860年代後半に隠岐から脱出し、コトリバコの作り方を教えた男性。

 

①1860年代に隠岐であった反乱とは何か。
②AAは何者で、何故コトリバコの作り方を知っていたのか。
③コトリバコの作り方は何を意味するのか。
④「チッポウ」や「ハッカイ」にはどのような漢字を当てるのか。
⑤コトリバコを処理できるMの神社はどこで、何という神を祀っているのか。

 

 他にも細かい疑問や不可解な部分は無数にありますが、当ブログではこの五点に関しての考察を進めていきたいと思います。細かな疑問の大半(たとえば登場人物の不自然な行動や、コトリバコは何故寺では処理できないのか、など)は、実はこの五つが解明できれば派生的に解決できてしまうからです。それでもなお解決しない大きな疑問としては、たとえば「Sのいた部落」はどこなのか、というものがありますが、それを特定することは風評被害を助長しかねませんので、本記事では一切の言及を避けさせて頂きます。また、コトリバコを伝えたAAなる人物や、初めに作られた「ハッカイ」がどこへ行ったのか、といった疑問に関しても、無根拠な妄想を広げることしかできない(要するに筆者の手には負えない)ので触れません。それでは、各項目の考察に入っていきたいと思います。

 

①1860年代に隠岐であった反乱とは何か
 これは多くのサイトや書籍で指摘されているように、1868年の「隠岐騒動」のことで間違いないと思われます。隠岐騒動」とは、隠岐国において、松前藩の支配に島民が対抗して起こした無血革命です。この騒動により、島民たちは僅か80日間のこととはいえ自治を実現することに成功しました。しかし、せっかく犠牲者のない無血革命であったにも関わらず、藩の兵士が島民たちの総会所に乱入し、発砲した事件をきっかけに殺し合いに発展してしまったのです(銃で武装した兵士たちに対峙する島民たちの武器はせいぜい竹槍程度で、当然勝負にはなりませんでした)。その際、島民側の死者は22名、捕縛入牢者は19名に及びました。また脱走者の正確な数は不明ですが、数十人に及ぶ、と『隠岐島誌』には記載されています。Sの住む場所にコトリバコを伝えたAAという人物は、本文中で「反乱を起こした側」と明記されているため、この脱走者数十名の中にいる、と考えて間違いなさそうです。

 

②AAは何者で、何故コトリバコの作り方を知っていたのか。
 AAは「反乱を起こした側」であるということから、隠岐に住んでいた人間なのは確実です。そして彼がコトリバコの作り方を知っていた、ということは「隠岐(の一部の人々)にコトリバコの作り方が伝わっていた」ということになります。隠岐とはかつての流刑地であり、伴健岑藤原秀郷の息子である藤原千晴後醍醐天皇といった多くの偉人が配流されてきました。コトリバコで用いられている呪法の謎については後程詳説しますが、コトリバコの呪法は朝鮮や中国といった大陸由来の呪術の影響を受けながらも、おそらく(ほぼ間違いなく)「神道のとある思想」と密接に結びついています。そもそも呪術の中身というもの自体が「秘中の秘」であり、一介の庶民、ましてや都から流刑地として扱われていた隠岐の島民に自然と伝わるはずがありません。つまり、隠岐という場所に「コトリバコの原型となる呪術」を伝えた人物がいるはずなのです。果たして、その人物とは一体誰なのでしょうか。


 筆者はその人物を後鳥羽上皇ではないか、と考えます。そして彼こそが本項の表の主役です。後鳥羽院承久の乱隠岐に配流され、そこで崩御しました。承久の乱自体、「天皇家が明確に幕府側に敗れた」という日本史上でも類を見ない極めて異例の大事件です。この大乱が後鳥羽院の自尊心をどれほど傷つけたかは想像に難くありません。また、当時の資料によると後鳥羽院に対する肯定的な意見は非常に少なく、どうも彼は隠岐に流される以前から一癖ある人物であったようです。さらに後鳥羽院は1237年に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」という置文を残しており、幕府への激しい憎悪を表明しています(後に怨霊騒動も起きています)。隠岐に配流された人物の中でも、後鳥羽院は「人を呪う動機」を十分に持ち合わせており、皇族という立場から、秘中の秘としての呪術を知っていてもおかしくない人物なのです。


 しかし、これだけでは「コトリバコの原型を伝えた人物が後鳥羽上皇である」という説の根拠としては弱いように思われます。他にも身分が高く、秘術を知っていてもおかしくないような人物は隠岐に配流されていますし、そもそも流刑に処された人物であれば、ほぼ全員が「人を呪う動機」を持ってるのは当たり前だからです。また、いくら天皇家とはいっても、コトリバコの呪法を後鳥羽院自身がはじめから知っていたとは到底考えられません。そこで、後鳥羽上皇の陰にいた「とある人物」の存在が重要になってきます。後鳥羽院は35年間の在位期間のうち、34回に渡って熊野御幸を行うほど、熊野信仰に熱心な天皇でした。そしてその熊野信仰に付き添い、後鳥羽院から非常に篤い信頼を寄せられていた「ある人物」が存在するのです。


 その人物の名は賀茂在継(ありつぐ)安倍晴明の子孫である安倍国道と陰陽頭をめぐって対立した陰陽師であり、本項の裏の主役です。正直なところ、今回の考察に陰陽道を持ち出すことにはかなりの抵抗がありました。ただでさえ事実誤認による荒唐無稽な俗説に塗れた陰陽道が、さらなる誤解に曝される可能性があるからです。しかし、コトリバコにはやはり大陸由来の呪法の影響があることは認めざるを得ないということ。陰陽寮がかつては、大陸の技術や呪法をいち早く取り入れる最先端の学問機関であったということ。そして何よりも前述したコトリバコの最も重要なベースである「神道のとある思想」が律令制の衰退以降、陰陽道と密接に結びついてしまったということ。これらの事情を考えると、「コトリバコの成立に陰陽師の関与がなかった」と考えることはどうしても無理があるのです。


 賀茂家といえば、安部家と並ぶ陰陽道の大家です。むしろ安倍晴明が現れるまでは、陰陽道といえば賀茂家の独擅場でした。しかも在継は陰陽頭陰陽寮のトップ)を務めた経験もあり、非常に有力な陰陽師であったことは間違いありません。『古今著聞集』には、後鳥羽上皇の熊野御幸に追従し、上皇が経典を紛失した際にその場所を言い当てたという話も残っています(上皇はその一件にいたく感心し、在継に御衣を与えたそうです)。こうした経歴や説話から、後鳥羽上皇と賀茂在継の間に、密接な関係があったことはほぼ確実です。また、このような二人の関係性から、陰陽師である在継からコトリバコの原型となる呪法を後鳥羽上皇に伝えたと推察できるのではないでしょうか。そして後鳥羽上皇もまた、隠岐で自分の周囲にいた僅かな人間にだけその呪法の詳細を伝えたのです。


 話をAAに戻しましょう。AAなる人物は何者だったのでしょうか。先述したように隠岐騒動の脱走者は数十名にのぼり、その正確な数さえ不明です。よってAAの名前を特定することは困難を極めると思われます。ただ、実際のところ種々の資料より脱走者のリストはある程度再現することが可能である上、「秘中の秘であるコトリバコの作り方を知っているような人物であり、なおかつ語り手たちの住む地域(後程詳述します)で珍しい苗字」という条件を考えれば、実はAAをある程度特定することは不可能というわけではありません。しかし、それでもやはり書斎派の筆者には特定は非常に困難ですし、仮に特定できたとしても、AAと同じ姓を持つ人への無根拠な風評被害を助長しかねない為、ここに書くことはできません。


 さて、膨大な量になってきた(既に約4000字!)ので、ここで一旦筆を置きたいと思います。残る三つの謎に関しては、次の記事で考察していきたいと思います。