百怪風景

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倩兮女

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(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』)

 

「倩兮女」

楚の国宋玉が東隣に美女あり。墻にのぼりて宋玉をうかがふ。嫣然として一たび笑へば、陽城の人を惑わせしとぞ。およそ美色の人情をとらかす事、古今にためし多し。けれけら女も朱唇をひるがへして、多くの人をまどわせし淫婦の霊ならんか。

 

 倩兮女(けらけら女)は鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に描かれた妖怪です。石燕の解説文にある宋玉とは、楚にいたとされる著名な文人でした。彼の東隣には、絶世の美女が住んでおり、約三年間に渡って墻(かき。「塀」のこと。「垣」の意)に登って宋玉をうかがっては彼を誘惑し続けましたが、結局宋玉は最後まで心を動かされることはなかったと言います。石燕はこの倩兮女もまた、古今多くの人を惑わせた淫婦の霊ではないか、と言っているようです。

 

 さて、民俗学者高田衛先生は、『画図百鬼夜行』の解説文中で、石燕が生きていた頃にはけらけら笑いをする化け物は、有名な怪異であったと述べておられます。確かに、石燕の書きぶりも、「けらけら笑いをする女の霊も、宋玉の話にあるような淫婦の類の霊かもしれないな」という風に、昨今話題になっている女の霊の正体について考察しているようにも読めます。

 

 我々は決してありのままの感情を生きているわけではありません。我々の感情の多くはいつも文化的・社会的に規定されたものです。たとえば、「クラブの試合で負けたのであれば悔しがるべきである」「わが子は可愛いに決まっている」「大切な人が死ねば悲しいはずである」…このように我々は、「こういうシチュエーションに陥ればこういう感情を抱くはずだ」というテンプレートを持っているわけです。だからクラブの試合に負けたのであれば、仮にそれほど悔しいと思っていなくても唇を噛みしめるようなポーズが要求されますし、自分の子どもを愛せない母親も基本的にその事実を口外することはないでしょう(もしそんなことを口外すれば、彼女はその愛情の欠落について凄まじい非難にさらされはずです)。

 

 そして、もしそのような文化的なテンプレートから大きく逸脱した感情表現をする者がいれば(あまりにも読めない感情表現をする人がいれば)、我々は少なからず恐怖や不安といった感情を抱くでしょう。泣くべきでないところで泣く人や、怒るべきではないところで怒る人には、やはり恐怖や滑稽さを感じると思われます。

 

 しかし、このような食い違った感情表現の中で、特に我々が恐怖を感じるのは「笑い」ではないでしょうか。たとえば、大切な親族の葬式(一般的には悲しんで泣くべき場面です)で、怒り出す人がいたとしても、その人物は「社会性や常識の欠如した人」という認識をされることがあったとしても、恐怖の対象となることはあまりないでしょう(もしかすると、大切な人が自分を残して逝ってしまったことに対して腹を立てているんだな、と周囲から同情される可能性もあります)。しかし、葬儀の場でけらけらと笑いだす人がいたとすればどうでしょうか。その人物と生前の死者は親密な間柄であったはずです。それにも関わらず、彼がけらけらと笑い続けていたとしたら、参列者たちにとってそれはきっと途轍もなく異様で不気味な光景に映るはずです。

 

 「笑い」という感情表現がアンバランスな状況でなされた際、人は他の感情表現とは別格の恐怖や不安を感じます。いじめによるクラスメイトの嘲笑も、(当然のことながら)いじめられている側からは何がおもしろいのかわからないからこそ、一層の不安や不快を煽るわけです。「殺人鬼が人を殺しながら笑う」という演出がサイコホラー映画の常套となっているように、人はアンバランスな状況で笑うモノに恐怖を覚えるのです。だからこそ、現代のホラー映画でも悪霊は「にちゃり」と笑いますし、江戸の頃から「笑う化物」の話は絶えなかったのでしょう。

 

 「倩兮女」の「倩」は「つら」と読みます。「つらつらと考える」などの「つら」です。意味は「念を入れて行うさま」「ひたすらに行うさま」です。「兮」は助字であり、本来は発音せず、語調を整えたり強調の語気を表します。つまり「倩兮女とは、ただひたすらに女である(淫婦である)」という意を石燕は表現したかったのかもしれません。もしくは、もっと単純に「倩兮女はただひたすらに笑う、笑い続けるものである」という意を表したかった可能性もあります。

 

 ひたすらに笑い続ける…?

 

 ここで、倩兮女に似た妖怪を紹介しましょう。その妖怪は「笑い女」と言われています。

 

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(『土佐化物絵本』より「笑い女」)

 

  笑い女は江戸時代末期から明治初頭に作られた妖怪絵巻『土佐化物絵巻』に描かれた妖怪です。その記述によれば、樋口関太夫という人物が、地元の人の警告を無視して領地の山へ狩りにいった際、そこに若い女がおり、彼を指さし大声で笑いはじめたそうです。笑い声はやがて山全体に響きはじめ、その声は関太夫が死ぬまで耳の中に響き続けたと言います。また、桂井和雄氏の『土佐の山村の「妖物と怪異」』には、姿の見えない山奥に響く笑い声だけの怪異として記載されています。

 

 この笑い女が倩兮女と同じ存在なのかはわかりませんが、「永遠にその笑い声が耳に残り続ける」という笑い女の伝承は、「ひたすらに笑い続ける」という倩兮女の字義によく一致しているように思えます。倩兮女に憑かれたものは、文字通りひたすらに(死ぬまで)その笑い声を聞き続けなければならないのかもしれません。

 

 また、2ちゃんねるのオカルト版には、この笑い女に非常に似た怪異が語られています。それは二〇〇八年十二月二十七日に書きこまれたこんな話です。

 

 

「笑い女」

その名の通り常に笑い声を上げている女の姿をした怪異。傷んだ髪を腰まで伸ばした若い女で、「いひゃっいひゃっいひゃっ」という笑い声を上げている以外は普通の人間と変わらず、スーパーなどで買い物をしている姿も目撃されている。ただしこの女に危害を加えた人間が、それ以降どこにいてもその笑い声が聞こえてくるという謎の現象に悩まされることになったといい、その笑い声は音楽や人の話し声が聞こえている状態では聞こえないものの、辺りが静かになると背後から次第に近づいてくるように、日を追うごとに大きくなっていったとされる。そして、最終的にその笑い声を聞き続けていた人間は、笑い声から逃れるためなのか両耳をボールペンで突いて自殺したという。実は笑い女と呼ばれるこの怪異の声は笑い声などではない。この女の顔はよく見ると口は笑っているものの目は一切笑っておらず、そして口の中には歯が一本もない。その口で、彼女は「いひゃっいひゃっいひゃっ」と声を上げている。それは歯がないためにそう聞こえているだけで、実際には「居た、居た、居た」と言い続けているのだという。

(朝里樹『日本現代怪異事典』)

 

 石燕の倩兮女は左手で口元を隠しており、歯がないのかどうかは確認できません。