百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

瓶長

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鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

「瓶長」

わざわひは吉事のふくするところと言へば、酌めどもかはらぬめでたきことをかねて知らする瓶長にやと、夢のうちにおもひぬ。

鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

 

 明けましておめでとうございます。昨年は非常にお世話になりました。今年もまた、月に一、二本ペースの亀投稿ではありますが、更新を続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 さて、本日は元旦にふさわしく、目出度い妖怪を紹介していこうと思います。それは『瓶長』(かめおさ)という妖怪です。瓶長は鳥山石燕の『百器徒然袋』に描かれた妖怪で、具体的な伝承などは見つかっておらず、石燕の創作妖怪と言われています。

 

 『百器徒然袋』は、名前からもわかる通り、兼好法師の『徒然草』からインスピレーションを得ているのですが、『徒然草』第九十八段に「死後の往生を願う者は、糠味噌(ぬかみそ)を入れる椹粏瓶(じんだびん)一つでも所有してはならない」とあります。「椹粏瓶一つ持たない」というのは、無一物のことです。兼好法師は「成仏には、あらゆる物を捨てなければならぬ」と執心を戒めているわけです(ちなみに、妖怪研究家の多田克己先生は、ここに『執心』と、身体に味噌の臭いが染みついた『臭身』がかかっているのではないか、と考察しておられます)。

 

 また、『徒然草』第百七十五段には、「酒は百薬の長と言われるが、それが過ぎると失敗の元となる」といった旨の記述があります。酒は飲む量によって、薬にもなるが、毒にもなる、ということです。『沙石集』の九巻には、「禍は福のよる所、福の伏す所」とあります。禍転じて福と為す。しかし、福が転じて禍と化すこともある。要するに禍福は互いの因果であるのです。よって、石燕は『徒然草』や『沙石集』の内容を念頭に置いて、瓶長の説明文に『わざわひは吉事のふくするところと言へば』と述べているのでしょう。

 

 また、瓶長の『瓶』は、『亀』とも掛かっていると考えられます。鶴と亀と言えば、長寿の象徴であり、わが国では非常に目出度いとされている動物です。多田克己先生は、『目出度い日の憑き物である亀』と『目出度い日につきものの酒』を掛けて、「瓶(亀)から目が出て(『目出度い』の洒落)、尽きない酒をあふれ出させる妖怪」として、石燕は瓶長を創作したのでないか、と考察しておられます。実際に石燕がそこまで想定していたのかは別として、非常に面白い考察です。

 

幸いなるかな 心の貧しい人 神の国は彼らのものである

(『マタイによる福音書』)

 

 聖書にも、心の貧しい人は幸いである、とあります。この一説には様々な解釈が成り立ちますが、やはり筆者としては(いささか構造主義的でありますが)、「幸福を感じるには、その対極にある貧しさを経験しなければならない」という意味なのではないかと考えます。毎日飢えることもなく、スマートフォンで欲しい情報に簡単にアクセスすることができ、暑い日も寒い日もエアコンの利いた部屋で快適に過ごすことのできる私たちは、人類史を顧みても類がないほどに幸せなはずです。かつてのファラオもここまで快適な暮らしを営んでいたわけではないでしょう。

 

 しかし、こうした状況に幸せを感じることができる人はそれほど多くありません。それはあまりにも当たり前なことであるから、です。当たり前なことの有難さを身に染みて理解するには、やはり『そうしたものが一切ない』という貧しい状況を経験し、それと対比しなければなりません。そう考えれば、やはり、『貧しい人は幸い』であり、『わざわひは吉事のふくするところ』なのです。瓶長は『わざわひ』(まぁ妖怪は一般的な人からすればそれほどいいものではないでしょう)でありながら、私たちに福をもたらしてくれる妖怪なのです。

 

 昨年は世界中が歴史的な疫禍に見舞われました。自粛を呼びかける政府の声を無視して遊び歩く人々や、そうした人々に対して飛び交うSNS上での誹謗中傷。疫病の恐ろしさや、ルールやマナーを守れない人間の恐ろしさだけでなく、『悪いことをした人間には何をしてもいい』というような、大義名分を得た差別の恐ろしさもまた例年以上に顕在化した一年でありました。

 

 こういう人の心の荒んだ世には、妖怪が住み着きやすいと思われるかもしれません。しかし、それは全くの逆なのです。このように人の心が荒み、余裕がなくなった時勢において、妖怪は生き残ることができません。歴史を紐解いていみても、平安時代や江戸時代などの太平の世では、数限りない怪異の記憶が残っていますが、戦国時代には豪傑譚に結びつくような一部の怪異譚を除けば、怪異にまつわる記録はあまりありません。人の住めない世の中では、妖怪も住めないのです。

 

 もちろん、荒んだ時代であるからと言って、怪異を経験する人が減るわけではありません。いつの時代も、『よくわからないこと』はあるのです。しかし、それを記録し、受け入れ、楽しむ人が減ってしまいます。要するに、怪を語り、楽しむ余裕のある人が減る、ということです。かつては日常的に放送されていた心霊番組や、オカルト番組といった、いかがわしい番組が減っているのは、科学の発達やオウム真理教の引き起こした陰惨な事件だけが原因ではなく、そうした番組を横目に見ながら笑い飛ばせる余裕のある人が少なくなってしまったからなのでしょう。『そんなアホな(笑)』と笑える人は減り、かといって緩く信じて怖がって楽しむような余裕のある人もあまりいない。その代わりに、到底根拠となっていないような根拠でそれらしく見せ、無知で生真面目な層を騙そうとする「都市伝説を称する陰謀論」のような話が幅を利かせるようになりました。

 

 多くの評論家がしたり顔で述べるように、昨今はおそらく『心の貧しい時代』なのでしょう。悔しいですが、それに関しては筆者も同意します。しかしだからこそ、小さなやさしさや、思いやりに心が震える時代でもあるのかもしれません。それは決して不幸であるだけではないのでしょう。『わざわひは吉事のふくするところ』なのです。