百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

燈無蕎麦

「明かりなし蕎麦」

江戸本所七不思議の一つ。本所南割下水に毎晩出ていたという明かりもなく人もいない蕎麦の屋台。誰かが明かりを消したのかと、行灯に火を入れてみても、すぐに消えてしまう。そうこうして帰宅すると、その家には必ず不幸があるといわれた。

(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

*この記事は、昔やっていたブログに書いていたものを加筆修正したものです。

 

 「あかりなしそば」とは、江戸時代の本所(現在の東京都墨田区)に現れた怪異です。

 本所南割下水に毎晩のように二八蕎麦の屋台(二八蕎麦とは、蕎麦粉8:小麦粉2の配合で練られた蕎麦のこと。その割合が語源とも、蕎麦一杯の値段が十六文であったため、二×八が由来とも言われている)が出ていましたが、そのうちの一つに行灯も灯さず、店のものが誰もいない屋台がありました。

 それを見つけたある男が不審に思い、行灯に火を灯して店主が来るのを待っていたところ、いつまで経っても誰もやって来ません。

 仕方なく諦めて家に帰ると、さっきまで元気だった家人が病に伏せ、そのまま亡くなったといいます。

 この怪異は本所七不思議という本所に纏わる怪談の一つで(七不思議といいますが、実際の怪談の数はまちまちで、数え方によっては九つほどあります)、燈無蕎麦の正体は狸ではないかと言われています(本所七不思議自体、置行堀、足洗邸、狸囃子など、何かと狸を犯人にしがちです)。

 さて、この怪異、実は特におかしなことは何も起きていません。たまたま灯りのついてない屋台の蕎麦屋をみつけた日、家に帰ると不幸があった、というだけの話で偶然の一言で片づけることはたやすいでしょう(そもそも家人の不幸と蕎麦屋の行灯に火を灯したことの間に因果関係を見出そうとする方が無理があります。怪異とは、体験者が怪異として解釈したからこそ怪異たり得るのです)。しかしそれではあまりおもしろくないので、少し妄想をふくらませてみたいと思います。これは、手癖は悪いが子供想いな、そんな男の物語です。


 ある日、男の家人(おそらくそれはまだ幼い息子か娘だったのではないでしょうか)が「蕎麦というものを食べてみたい」と言いました。彼(あるいは彼女)は、今まで蕎麦というものを食べたことがなかったのです。

 男は我が子の頼みを聞き、近くの通りに出たところ、ちょうど店主が不在の屋台蕎麦がありました。

 男は店主が不在なのを良いことに、屋台から蕎麦を盗み出し、そのまま家に持ち帰って子どもに食べさせました。

 するとなんということでしょう。我が子は急にのたうち回り、やがて死んでしまいました。彼の子どもは今の言葉で言うところの重度の蕎麦アレルギーだったのです。

当然男は驚きました。それからこの話を人に語りました。もちろん「灯の灯っていない蕎麦屋に行灯を灯してしばらく待っていたが、誰も来る気配がなかったので、蕎麦を盗み出し、子に食わせたところ、子が倒れ、そのまま死んだ」という話から、「蕎麦を盗み出して子どもに食わせた」という部分を省いて。

そしてたまたま店主が席を外していたせいで蕎麦を盗まれた屋台の話は、厄災を呼ぶ恐ろしい蕎麦屋の怪異の噂として、人口に膾炙することになったのです。

もちろんこれはただの妄想です。何の根拠もないただの空想に過ぎません。けれども、実際に怪異に遭遇した人にも(いささか運のないものだったにせよ)確かに人生はあったのです。彼らは決して名前のないAさんなどではありません。時には怪異を通じて、そういう人たちの人生に空想を巡らせることも面白いかもしれません。

わいら

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鳥山石燕画図百鬼夜行』)

 

 「わいら」は鳥山石燕の『画図百鬼夜行』や佐脇崇之の『百怪図巻』などに描かれた妖怪です。この妖怪もまた、前記事の「おとろし」と同じく、その図像は多く描かれているものの、それらには何の説明も施されておらず、伝承の類が一切残っておりません。

 

 「わいら」は佐脇崇之以前に描かれた姿と、石燕が描いた姿で随分と見た目が異なります。かつての「わいら」は、地面に這いつくばったやや不定形な岩のような怪物、といった風情なのですが、石燕の描く「わいら」には耳が追加され、よりシャープで動物的な見た目となっています。

 

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(佐脇崇之『百怪図巻』)

 

 ただ、下半身が描かれておらず、鉤爪のような前足を持っている点は共通しているといえます。「おとろし」の記事にも書いたように、「わいら」と「おとろし」は並んで描かれることが多く、「わいら=怖い」と「おとろし=恐ろしい」の言葉遊びになっている可能性が指摘されています。しかし、筆者としては見るからにおぞましい見た目をした「おとろし」に比べると、「わいら」はどこか愛嬌があり、それほど「怖い」という印象は受けにくいように思えます(まぁ実際にいたらかなり怖いでしょうが)。

 

 作家の山田野理夫先生の子供向け作品である『おばけ文庫』第二巻、『ぬらりひょん』の中に「わいら」の話が載っています。そこには常陸の国(現在の茨木県)で野田元斎という医者が山の中で「わいら」を見た、と記載されており、彼によると「わいら」は鉤爪でモグラをとらえて食していたそうです。

 

 妖怪研究家の多田克己先生や村上健司先生は、この話を山田先生の創作である、と断じていますが、京極夏彦先生の対談集『妖怪大談義』の中で、山田先生は次のように述べておられます。

 

山田 それ(実際に取材した話と創作した話の割合)は半々くらいでしょうなぁ。

京極 たとえば、先生が子供向けに書かれた「おばけ文庫」がございますでしょう?

山田 ええ、十二冊ね。

京極 あの中の、ワイラという妖怪の話に、固有名詞が出て来るんです。野田玄斎というお医者さんがワイラを見たという風に。

山田 それはどこかで見たんだな。

京極 お話を膨らませる時に、固有名詞を作られたりすることなどは?

山田 いや、それはないな。忘れましたが、どこかで見たんでしょう、その名前を。

 

京極夏彦『妖怪大談義』

 

 以上の山田先生の発言から、少なくとも「野田元(玄)斎という固有名詞に関しては実際に元ネタが存在する」ということがわかります。ただ、「わいら」の話自体が創作なのか否かについてはこの発言からは確定できません。あくまで山田先生は「野田元斎という名前はどこかで実際に見た」と言っているに過ぎないのです。

 

 さて、それでは「わいら」とは一体どのような妖怪なのでしょうか。「わいら」に関する確実な手がかりは名前と図像だけしかありません。妖怪研究家の多田克己先生は、例の如く字解きを試みていらっしゃいます。

 

 「汝等(わいら)」は目下にむかっていう対象名詞で、対者を罵っていう時にも用いる。「われら」が「わえら」→「わいら」崩れた語である。ただし穢れているものを「穢(わい)」といい、「獩」はけがらわしい獣という意味がある。「獩」は「獩狛(わいばく)」の略である。獩狛はその昔、朝鮮半島中国東北部に住んでいた異民族を、漢民族から見て蔑視して呼んだ名である。転じて日本では、朝廷のあった近畿から見て東北地方に住む蝦夷を指すようになった。ちなみに「狛」とは貉(狸)のことである。近畿地方に住んでいた弥生系の人々にとって、東北地方に住む縄文系の毛深い人々を、鬼か貉のように妖怪視していたようだ。(貉が人に化ける伝承は、東北地方に集中する。)

 また「畏(わい)」は、恐れる、怖れる、驚くという意がある。「畏儡(わいらい)」は、かしこまる、その場に畏るの意で、地べたにはいつくばっている「わいら」の姿を連想させる。

 

(多田克己編『妖怪図巻』)

 

 実際のところ、筆者としては、「わいら」という妖怪を考えるにあたって、字解きが有効なのかは判断がつきません。石などがでこぼこしている様を「碨(わい)」といいますが、確かに前述のように佐脇以前の「わいら」は岩のような形状をしていました。また「薈(わい)」という言葉は草木が茂る様子を表します(ちなみに何の関係もないと思われますが、「蘆薈(ろかい)」とは「アロエ」のことです)。石燕の絵には「わいら」の下半身を隠すように木が茂っていますが、関係があるのかはわかりません。

 

 水木しげる先生は、『日本妖怪大全』の中で、「今は絶滅している不思議な動物を妖怪と見間違えたのではないか」と述べておられますが、真相は案外そういうシンプルなものなのかもしれません。

 

 シャチは昔、本邦においては未確認生物であり、「磯撫」という名前で呼ばれる化物の一種でした。また、ムササビもまた「野衾」という名前で呼ばれる化物だったのです。「わいら」ももしかすると、今、我々が別の名前で呼んでいる動物がまだ本邦において未確認生物だった頃の古い名称だったのかもしれません。

 

おとろし

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鳥山石燕画図百鬼夜行』)

 

 「おとろし」は鳥山石燕の『画図百鬼夜行』や佐脇崇之の『百怪図巻』などに描かれた妖怪です。他にも松井文庫の『百鬼夜行絵巻』(こちらでは名前は「毛一杯」になっています)や鳥羽僧正の真筆と言われる『化物づくし』などにもその姿が描かれていることから、見た目のインパクトも相まってかなりメジャーな妖怪であったようです。

 

 しかし、この「おとろし」という妖怪に関しては、塗仏やわいらなどといった妖怪たちと同じく図像しか残っておらず、どのような妖怪なのかという情報が一切伝わっていません。もちろん、伝承の過程で「おとろし」にまつわる情報が消失していった可能性や、そもそも単なるキャラクターに過ぎず、元々何の伝承も存在していなかった可能性もありますが、もしかすると何の説明も加える必要がないほどに当時としては人口に膾炙した有名な妖怪だった可能性も考えられます。

 

 

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(佐脇崇之『百怪図巻』)

 

 「おとろし」は別名「おどろおどろ」とも言われます。水木しげる先生の『ゲゲゲの鬼太郎』では「おどろおどろ」の名称で登場するため、そちらの方が有名かもしれません。『化物づくし』での表記は「おとろ〱」(最後の記号は「くの字点」であり、繰り返しを意味します。また当時は濁点の表記が存在していなかったため、これで「おどろおどろ」と読みます)となっていたため、妖怪研究家の多田克己先生は『後世の妖怪絵師たちは「〱(くの字点)」を「し」と読み間違えたのかもしれない』と考察しておられます。

 

 ただ、実際のところ「おどろおどろ」とは「恐ろしいほど気味が悪い様」をあらわす「おどろおどろしい」を名詞化したものであり、「おとろし(=恐ろしい、不気味であるの意。「おそろしい」の上方訛り)」と意味上では大差がありません。また、「おとろし」は「わいら」という妖怪と並んで描かれることが多く、「恐ろしい(=おとろし)」と「怖い(=わいら)」の言葉遊びである生まれた妖怪である可能性があります(多田先生も、『「おとろし(=恐ろしい)」という言葉が先にあって、当時の人々が最も恐ろしいと思う姿を想像して書いた妖怪なのではないか』という可能性に言及しています)。

 

 会津地方に明治のはじめ、先祖の寺詣などしたことのない不信心の男がいた。男は母親が死んだので、寺で葬(とむら)いをすることになった。男は寺の山門をはじめて潜るのだ。母親の棺が山門を潜ったあと、その背後から男は潜ろうとしたら、突然、山門の上から太い腕が出てきて、男の襟首をつかまえて吊り上げた。

 男は足をバタバタさせて降りようとするのだが、葬いの済むまで吊るされたままでいた。男を山門から潜らせないようにしたのは、オトロシというものである。

 あの男は不信心なのでオトロシが嫌ったのだと噂がたった。オトロシは鬼と似ているそうだが、顔も体も赤く、金棒などは持っていない。

 

(山田野理夫『東北怪談の旅』)

 

 水木しげる先生の『のんのんばあとオレ』にも見られるように、「おとろし」は不信心なものを戒める妖怪として語られることがあります。しかし、そうした伝承は作家である山田野理夫先生の『東北怪談の旅』以前にさかのぼることはできず、実際は山田先生の創作である可能性が指摘されています(もちろん、現実に福島県の周辺でそうした伝承が存在していなかった、と言い切ることはできません)。

 

 石燕の描いた「おとろし」は鳥居の上で鳩を鷲掴みにするという構図で描かれています。狐が稲荷神の眷属であるように、鳩は八幡神の眷属とされています。八幡様といえば、清和源氏氏神であり、破壊神シヴァと同一視された武神です(現在は平和の象徴である鳩も、昔は戦いの神様の眷属だったのです)。そんな鳩を鷲掴みにする「おとろし」は、もしかすると清和源氏を怨敵とする桓武平氏と何らかの関係があるのかもしれません。多田先生は、この構図について「八幡の眷属である鳩を握り潰すということは、おとろしが神よりもさらにおそろしいものであることを示しているのかもしれない」とおっしゃっています。もちろん、その可能性も否定できませんが、もっと単純に神域に鳩が侵入しているのを阻止しているようにも見えます。ただ、「おとろし」が登っている鳥居は真言宗系の鳥居であり、大自在天真言宗において八幡神と同一視される)の眷属である鳩が、神域に入ることを阻止するのでしょうか?石燕は一体なぜこのような構図で「おとろし」を描いたでしょうか?「おとろし」とは甚だしく謎の多い妖怪なのです。

 

 

カイナデ

「カイナデ」

京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所に行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。

(村上健司『日本妖怪大事典』)

 

 皆さんは小学生の頃、「トイレから手が出てきて尻を撫でられる」という怪談を聞いたことはないでしょうか。そのルーツとなったのがこのカイナデという妖怪です。どのような字を当てるのかはわかりませんが、「腕」という漢字は「かいな」とも読むので、もしかすると「腕手」で「カイナデ」なのかもしれません。もしくは「腕撫」でしょうか。どちらにせよ、名前から想像できるように、手だけの妖怪である(と少なくとも認識されている)ようで、その全容が語られることはありません。地域によっては河童の仕業とされることもありますし(余談ですがダウンタウン松本人志さんも、少年時代、自宅のトイレから河童の手が出て来るのを目撃したという話をされていました)、慶長の頃には「黒手」と呼ばれる似たような妖怪の話も伝えられています。

 

黒手[くろて]『四不語録』にある妖怪。

 慶長年間(一五九六年~一六一五年)、能登国(石川県)郡主長如庵の臣・笠松甚五兵衛の屋敷で、夜に便所へいくと何者かに尻を撫でられるということがあった。甚五兵衛は狐狸の類かと思い、短刀を持って便所で待ち構え、出てきた毛むくじゃらの黒い手を切り落とした。

 手は箱に入れて保管しておいたのだが、まもなく三人の行脚僧に化けた、黒手の化け物どもが家を訪れ、まんまと奪い返されてしまった。

 後に甚五兵衛が夕暮れの道を歩いていると、突然空から衾のようなものが舞い降りてきて、甚五兵衛を包み込んで、宙に浮かんだ。2mも上がったところで下に落とされた甚五兵衛が、不思議に思って懐を探すと、先日の黒い手を切り落とした短刀が奪われていたという。

(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

 このように便所から手をだして人の尻を撫でる妖怪は、江戸の昔からそれなりにポピュラーな存在だったようです。こうした怪異に合理的な解釈を下すのは比較的容易です。昔の便所は現在の水洗式とは異なり、所謂「汲み取り式」ですから、実際に人が潜むことは不可能ではありませんし、現実に変質者が便所の下に潜んでいたという実例もあります。『糞尿とその匂いに塗れてまで尻を撫でたい』というのは、なかなか想像し難い恐ろしい執念ですが、物理的には問題なく実現できてしまいます。ただ「猫娘」の記事にも書いたように、そういう常軌を逸した変質者は、江戸のご時世は人間とは思われない傾向があったので、犯人として架空の化け物が創造されたり、尻子玉を好む河童が冤罪を被ることになったのかもしれません。

 

 さて、本来家庭内の怪異であったはずのカイナデですが、いつしか学校の怪談へと変質していったようです。1942年時点では、大阪市立木川小学校で既に学校の怪談として伝えられており、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という声が聞こえ、それに対して何かしら返事をしてしまえば、尻を撫でられる、という話が存在していました。「女子便所」に限定されているあたり、以前よりもさらに変質者の犯行であることを匂わせます。

 

 ただ、この噂には、「節分の夜」というキーワードが消失しており、また「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という本来人間が唱えるはずの呪文が、化物の発する言葉として語られているところが興味深い点と言えるでしょう。村上健司先生は『学校では夜に便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件は消えてしまったのだろう』とした上で、「節分の夜」というキーワードの重要性を説いておられます。

 

 節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には紫姑神という便所神の由来を説く次のような伝説がある。

 春陽県の李景という県知事が、何媚(何麗卿とも)という女性を迎えたが、本妻がそれを妬み、旧暦正月15日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという。

(村上健司編『日本妖怪大事典』)

 

 村上健司先生は、紫姑神だけを日本の便所神のルーツとすることは安易であると警告しつつも、影響を受けていることはたしかであるとおっしゃっています。実際のところ、紫姑神はカイナデだけではなく、現代に残る学校の怪談にまで大いに影響を与えています。たとえば一人神である紫姑神への供え物として赤い紙と白い紙でできた紙人形をお祀りするのですが、これはそのまま「赤い紙やろか、白い紙やろか」というカイナデ撃退の呪文に通じます。また、赤と白というコントラストは、「トイレの花子さん」の赤いスカートと白いブラウスという服装に通じるもがあります。また、紫姑神は厠の戸を叩く回数で未来を予言すると言われ、これもトイレのドアを規定の回数ノックすることで未来を占ってくれるという花子さんの話そのものです。また、紫姑神はそのまま「紫の姑」であり、ムラサキババアでもあるのです。何媚は読書家で学問に熱心な女性という話が伝わっています。そうしたイメージから、紫姑神は学校の怪談へと取り込まれていったのかもしれません。

 

 しかしカイナデの「尻を撫でる」という行為は怪異としては些か弱い、と言わざるをえないでしょう。もちろん不気味ではありますがそれだけです。よってカイナデの話はどんどん過激なものへと変わっていきます。たとえば、「赤い紙、白い紙」と言われる怪談があります(地方によっては白い紙ではなく、青い紙のこともありますが、赤い紙の方は比較的どこでも不変のようです)。話の概略としては、学校のトイレで用を足していると、どこからか「赤い紙はいらんか、白い紙はいらんか」と問われ、それに対して赤と答えれば血まみれになって殺され、白と答えれば血を抜かれて殺される、というものです。どっちで答えても殺されるなら、どうやってこの怪談が伝播したんだよ、というマジレスはともかく、非常に有名な怪談なので、特に怖い話に興味のない方でも聞いたことがあるかもしれません。尻を撫でるだけだったはずの怪異が殺人まで犯すようになった心境の変化には興味がありますが、実際のところ人はどんどん過激でグロテスクな怪談を求めていくということなのでしょう。

 

 しかし現在はこうした学校の怪談・トイレの怪談は現在急速に減少しつつあります。そもそも、怪談が広く伝播する背景には「恐怖への共感」がなくてはなりません。この話については『文車妖妃』の記事で言及しているので、あらためて詳述することは避けますが、現代の日本では大半のトイレはもはや清潔な場所であり、昔の人々が思っていたような怖くて臭い不気味な場所ではないのです(実際、トイレの個室が憩いの場所であり、いつまでもトイレで時間を潰してしまうというサラリーマンも多いようです)。だから、たとえトイレの怪談を聞いたところで多くの人は共感することができません。そして共感を得られない話は広まることもないのです。それよりは、どんなデマゴギーもまかり通ってしまうほどにメディアの信用が失墜した現在、荒唐無稽な陰謀論のような都市伝説のほうが遥かに人々の共感を集め、影響力を持っています(実際、今回の疫禍や某国の大統領選により、かなり無理のある陰謀論でも容易に一定の支持を集めてしまうことが実証されてしまいました)。

 

 もちろん、盲目的に過去を美化し、現代を批判するのは非常に偏狭な見方です。実際問題として、現在の社会では犯罪率は低下の一途をたどっていますし、不当な長時間労働に悩まされる人の数も減りつつあります。また、便利なガジェットや様々なニーズに応えられるような土壌も整ってきました。トイレだって清潔になるに越したことはありません。しかし、少なくとも怪談として語られる妖怪たちからすれば、あまり幸福な時代であるとは言えないのかもしれません。

 

アマビエ

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京都大学附属図書館所蔵『アマビエ』の瓦版)

 

 2020年初頭、世界は新型コロナウイルスの脅威に晒されました。そして、周知の通り、その疫禍は未だに収束する気配を見せません。様々な陰謀論デマゴギーが世の中を席巻し、超情報化社会と言われる令和時代になっても、人々は簡単に根拠のない言説に流されてしまうということが証明されてしまいました。

 

 こうした疫禍の中、一体の妖怪(?)が大きな注目を集めました。それが『アマビエ』という妖怪です。アマビエは『ゲゲゲの鬼太郎』や『地獄先生ぬーべーNEO』といった、妖怪アニメ・漫画を代表する作品にも登場しているため、妖怪の中ではそれほどマイナーな妖怪というわけではありませんでしたが、そもそも『妖怪アニメ・漫画』といったコンテンツ自体がニッチな存在であるため、一般的認知度は高いとは言えない存在でした。まず、アマビエがどのような妖怪なのか見ていきましょう。

 

『アマビエ』

弘化3年(1846年)4月中旬と記された瓦版に書かれているもの。肥後国熊本県)の海中に毎夜光るものがあるので、ある役人が行ってみたところ、アマビエと名乗る化け物が現れて、「当年より6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。

( 村上健司『日本妖怪大事典』)

 

 要するにアマビエは「予言する怪異」の一種であることが見受けられます。しかし、単純に予言をするだけではなく、「流行病が流行ったら、自分の姿を写した絵を見せよ」というまるで災いの回避策を示すようなことも言っています。このことから、アマビエは「疫病退散の象徴」として注目され、新型コロナウイルスに対するお守りのようなものとしてその絵がSNS等で描かれるようになったのです。そして、このアマビエに関して各種メディアで解説記事を書いていた兵庫県立博物館の香川雅信氏の『江戸の妖怪革命』(角川ソフィア文庫)から抜粋された文章が2021年度の共通テスト現代文の題材になるなど、まさにアマビエ景気とでも呼べるような状態が続いています。

 

 しかし、このアマビエという妖怪は、実際のところ「自分の写しを見せればどうなるのか」ということに関しては一切言及していません。さらに、アマビエを目撃したという記録は、この弘化三年の瓦版以外には一切存在しておらず、民俗学者湯本豪一氏は、『アマビエはアマビコの誤記なのではないか』という説を唱えておられます。

 

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(アマビコの写像例1)

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(アマビコの写像例2)

 

 アマビコとアマビエの見た目は大きく異なりますが、「三本足」というところは両者共通しています。そして、伝承に至っては驚くほど類似しているのです。

 

 アマビコは多くの場合、海の中から怪しい光を放って出現します。また、豊作や疫病を予言し、自分の姿を書き写した者は厄を逃れることができると述べたといいます。見た目の特徴を除けば、ほぼ完全にアマビエを一致していることは明らかです。しかし、アマビエとは異なり、アマビコの方は「自分の姿を書き記せば厄を回避できる」と明言しているところは注目に値します。

 

 アマビエは恐らく、アマビコの誤記から生まれた妖怪であり、「予言する怪異」としての特徴がより強くクローズアップされた妖怪なのだと考えられます。所謂予言獣としての妖怪は、基本的に人面の獣として描かれることが多いのです。件(くだん)という妖怪は人の顔をした牛の妖怪ですし、白澤という中国の予言獣も本邦では老爺の顔をした獣として描かれています。先ほど掲載したアマビコの写像2も人面獣のようにも見えます。

 

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(城間清豊『白澤』)

 

 また、世界でも最も有名な予言獣はやはり人魚ではないでしょうか。人魚には予知能力があるとされ、人魚が予言をしたという伝説は洋の東西を問わず残っています(もちろん人魚も人面です)。アマビエはアマビコ誤記の結果生まれた妖怪であり、三本足以外の特徴がわからなかった瓦版の作者が「まぁ予言というなら人魚だろう」といった連想を行った結果、あのような図像が与えられたのではないでしょうか。

 

 よって、新型コロナウイルスの対策には、アマビエではなくアマビコの絵を描く方がいいのかもしれません。もちろん妖怪の絵に頼るよりは、少なくとも現状正しいとされている感染症対策を徹底する方が効果的であることはいうまでもありませんが。

 

瓶長

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鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

「瓶長」

わざわひは吉事のふくするところと言へば、酌めどもかはらぬめでたきことをかねて知らする瓶長にやと、夢のうちにおもひぬ。

鳥山石燕『画図百器徒然袋』)

 

 

 明けましておめでとうございます。昨年は非常にお世話になりました。今年もまた、月に一、二本ペースの亀投稿ではありますが、更新を続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 さて、本日は元旦にふさわしく、目出度い妖怪を紹介していこうと思います。それは『瓶長』(かめおさ)という妖怪です。瓶長は鳥山石燕の『百器徒然袋』に描かれた妖怪で、具体的な伝承などは見つかっておらず、石燕の創作妖怪と言われています。

 

 『百器徒然袋』は、名前からもわかる通り、兼好法師の『徒然草』からインスピレーションを得ているのですが、『徒然草』第九十八段に「死後の往生を願う者は、糠味噌(ぬかみそ)を入れる椹粏瓶(じんだびん)一つでも所有してはならない」とあります。「椹粏瓶一つ持たない」というのは、無一物のことです。兼好法師は「成仏には、あらゆる物を捨てなければならぬ」と執心を戒めているわけです(ちなみに、妖怪研究家の多田克己先生は、ここに『執心』と、身体に味噌の臭いが染みついた『臭身』がかかっているのではないか、と考察しておられます)。

 

 また、『徒然草』第百七十五段には、「酒は百薬の長と言われるが、それが過ぎると失敗の元となる」といった旨の記述があります。酒は飲む量によって、薬にもなるが、毒にもなる、ということです。『沙石集』の九巻には、「禍は福のよる所、福の伏す所」とあります。禍転じて福と為す。しかし、福が転じて禍と化すこともある。要するに禍福は互いの因果であるのです。よって、石燕は『徒然草』や『沙石集』の内容を念頭に置いて、瓶長の説明文に『わざわひは吉事のふくするところと言へば』と述べているのでしょう。

 

 また、瓶長の『瓶』は、『亀』とも掛かっていると考えられます。鶴と亀と言えば、長寿の象徴であり、わが国では非常に目出度いとされている動物です。多田克己先生は、『目出度い日の憑き物である亀』と『目出度い日につきものの酒』を掛けて、「瓶(亀)から目が出て(『目出度い』の洒落)、尽きない酒をあふれ出させる妖怪」として、石燕は瓶長を創作したのでないか、と考察しておられます。実際に石燕がそこまで想定していたのかは別として、非常に面白い考察です。

 

幸いなるかな 心の貧しい人 神の国は彼らのものである

(『マタイによる福音書』)

 

 聖書にも、心の貧しい人は幸いである、とあります。この一説には様々な解釈が成り立ちますが、やはり筆者としては(いささか構造主義的でありますが)、「幸福を感じるには、その対極にある貧しさを経験しなければならない」という意味なのではないかと考えます。毎日飢えることもなく、スマートフォンで欲しい情報に簡単にアクセスすることができ、暑い日も寒い日もエアコンの利いた部屋で快適に過ごすことのできる私たちは、人類史を顧みても類がないほどに幸せなはずです。かつてのファラオもここまで快適な暮らしを営んでいたわけではないでしょう。

 

 しかし、こうした状況に幸せを感じることができる人はそれほど多くありません。それはあまりにも当たり前なことであるから、です。当たり前なことの有難さを身に染みて理解するには、やはり『そうしたものが一切ない』という貧しい状況を経験し、それと対比しなければなりません。そう考えれば、やはり、『貧しい人は幸い』であり、『わざわひは吉事のふくするところ』なのです。瓶長は『わざわひ』(まぁ妖怪は一般的な人からすればそれほどいいものではないでしょう)でありながら、私たちに福をもたらしてくれる妖怪なのです。

 

 昨年は世界中が歴史的な疫禍に見舞われました。自粛を呼びかける政府の声を無視して遊び歩く人々や、そうした人々に対して飛び交うSNS上での誹謗中傷。疫病の恐ろしさや、ルールやマナーを守れない人間の恐ろしさだけでなく、『悪いことをした人間には何をしてもいい』というような、大義名分を得た差別の恐ろしさもまた例年以上に顕在化した一年でありました。

 

 こういう人の心の荒んだ世には、妖怪が住み着きやすいと思われるかもしれません。しかし、それは全くの逆なのです。このように人の心が荒み、余裕がなくなった時勢において、妖怪は生き残ることができません。歴史を紐解いていみても、平安時代や江戸時代などの太平の世では、数限りない怪異の記憶が残っていますが、戦国時代には豪傑譚に結びつくような一部の怪異譚を除けば、怪異にまつわる記録はあまりありません。人の住めない世の中では、妖怪も住めないのです。

 

 もちろん、荒んだ時代であるからと言って、怪異を経験する人が減るわけではありません。いつの時代も、『よくわからないこと』はあるのです。しかし、それを記録し、受け入れ、楽しむ人が減ってしまいます。要するに、怪を語り、楽しむ余裕のある人が減る、ということです。かつては日常的に放送されていた心霊番組や、オカルト番組といった、いかがわしい番組が減っているのは、科学の発達やオウム真理教の引き起こした陰惨な事件だけが原因ではなく、そうした番組を横目に見ながら笑い飛ばせる余裕のある人が少なくなってしまったからなのでしょう。『そんなアホな(笑)』と笑える人は減り、かといって緩く信じて怖がって楽しむような余裕のある人もあまりいない。その代わりに、到底根拠となっていないような根拠でそれらしく見せ、無知で生真面目な層を騙そうとする「都市伝説を称する陰謀論」のような話が幅を利かせるようになりました。

 

 多くの評論家がしたり顔で述べるように、昨今はおそらく『心の貧しい時代』なのでしょう。悔しいですが、それに関しては筆者も同意します。しかしだからこそ、小さなやさしさや、思いやりに心が震える時代でもあるのかもしれません。それは決して不幸であるだけではないのでしょう。『わざわひは吉事のふくするところ』なのです。

 

 

滑瓢

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鳥山石燕画図百鬼夜行』より「ぬらりひょん」)

 

 ぬらりひょん(滑瓢)と言えば、ゲゲゲの鬼太郎などにも登場する非常に有名な妖怪です。筆者は未読なのですが、『ぬらりひょんの孫』という漫画作品も流行していたので、御存知の方も多い妖怪なのではないでしょうか。

 

 よく児童向けの妖怪図鑑などでは、『夕暮れ時に勝手に人の家に上がり込み、その家の主人のように振る舞う妖怪であり、その傲岸不遜な態度から妖怪の総大将とも言われている』といった旨の解説がなされることがあります。しかし、この説明は民俗学者である藤澤衛彦先生の『妖怪画談全集 日本篇 上』における以下の記述を元にしています。

 

まだ宵の口の灯影にぬらりひょんと訪問する怪物の親玉

( 藤澤衛彦先生『妖怪画談全集 日本篇 上』)

 

 この記述は、何かしら対応する伝承が存在するわけではなく、あくまで藤澤先生が石燕の『画図百鬼夜行』に描いた「ぬらりひょん」(本記事冒頭の参考画像参照)の状況を想像して説明しただけである、と言われています。そして、水木しげる先生が漫画作品の中でその設定を踏襲したため、「ぬらりひょん=妖怪の総大将」という図式が定着したのだと考えられます。

 

 また、非常に稀ではありますが、「ぬらりひょんは、神棚に祀られ、迎え入れられていた客人神(まろうどがみ)が妖怪化したものである」という説を見かけることがあります。この説は真倉翔先生原作の漫画『地獄先生ぬーべー』の第69話『ペテン師妖怪!?ぬらりひょんの巻』が元ネタと考えて間違いないでしょう。ちなみに、『地獄先生ぬーべー』の作品内では、『聖城怪談録』という書物を論拠として、「ぬらりひょんがいつの間にか家の中に上がり込む旅の僧侶のような姿をした妖怪」という説明を加えていますが、これはおそらく『聖城怪談録』内の『時枝勘右衛門宅異人を見る事』の記述を元にしていると考えられます。そこには確かに、家宅に勝手に立ち入って、何をするでもない怪異の話が語られているのですが、それがぬらりひょんである、とは一切明言されておりません。

 

 さて、ここまでで、一般的なぬらりひょんにまつわる説明を打ち消してきたわけなのですが、それでは実際にぬらりひょんとはどういう妖怪なのか、と言えばそれは一切わからない、というのが現状と言わざるを得ません。石燕の描いた「ぬらりひょん」の絵には、駕籠から飛び降りる遊び人風の老人が描かれていますが、これは単なる言葉遊びであり、ぬらりひょんの実態を伝えているわけではないようです。江戸時代では、「駕籠などの乗り物から出る様」を「ぬらりん」と言い、「遊郭通いの遊び人」を「ぬめり者」と言いました。ぬらりひょんを「ぬらりんと駕籠から飛び降りるぬめり者」として描くことで洒落ているわけです。

 

 一応、実際に存在する伝承として、岡山県の瀬戸内海に現れるぬらりひょんの話があります。ぬらりひょんは海に浮かぶ人の頭くらいの大きさの妖怪であり、捉えようとしてもぬらりくらりと人の手をすり抜けると言います(しかし、このぬらりひょんは、タコやクラゲを妖怪視したもののように思え、我々がよく知るぬらりひょんとは違う存在であると解釈されることが一般的です。ただ、石燕より前の時代に描かれた佐脇崇之の『百怪図巻』などの「ぬらりひょん」を見ると、さらに頭が大きく、その形状もよりタコやクラゲの頭に近づいているようにも見えるので、筆者としては一概に別の妖怪である、とも言い切れないのではないか、思っています)。

 

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(佐脇崇之『百怪図巻』より「ぬらりひょん」)

 

 このように、明確な伝承が残っておらず、非常にとらえどころのない妖怪であるぬらりひょんですが、唯一残っている伝承も(物理的に)とらえどころのないものとなっています。ちなみに「ぬらり」とは、「滑らかでよく滑る様」であり、「ひょん」とは「思いがけない、意外な」と言った意味です。つまり、ぬらりひょんとはその字義からして、「非常にとらえどころのない、思いがけない」妖怪なのです。もしかすると「とらえどころのない様や状況」それ自体を妖怪化(今風に言えば擬人化でしょうか)した存在こそが、ぬらりひょんという妖怪の正体なのかもしれません。