百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

彼岸の恋人

 8月もいよいよ最終盤に差し掛かって参りましたが、未だに猛暑は衰えを知りません。暑さの続く限りは怪談記事を投稿していきます。これは筆者の知人である山本さん(仮)という男性から聞いた話です。

 

 

 山本さんは、大して売れていないバンドのギタリストだった。ライブをすればギリギリで黒字が出ることもある程度(もちろん赤字の時もあった)で、バンド一本で生活していくことなど到底できる状況ではなかった。

 

 しかし、それなりにコアなファンもついてきたし、何より人前で演奏することの快感はやはり何ものにもかえようのないものであった。いつまでも定職につかず、ふらふらしている(少なくとも親族にはそう映っていた)山本さんを、家族は嫌がっていたけれども、やはりバンドをやめることは考えられなかった。山本さんはアルバイトをしながらバンドを続け、とりあえず餓死するまではこの生活を続けようと本気で考えていた。

 

 夢に殉死することが格好いいと思っていたわけではない(そんな風に考えられる年齢は遠に過ぎていた)。ただ、やりたいことをやめてまで生きていく人生に大した魅力を感じることができなかったのだ。

 

 けれども、学生時代から付き合っていた恋人は、そんな彼にいつまでもついていくことはできなかった。彼女は公務員であり、彼女の幸福観は世間一般の人が考える幸福観とほとんど一致していたし、そんな一般的な幸福観を持てない人を「何かが欠落した哀れな人」と考えてしまう傲慢さが彼女にはあった。もちろん彼女だって学生時代は「バンドマンはこの世で最もクールな人種」だと信じていたし、ステージの上で激しくギターをプレイする山本さんを心底格好よくてセクシーだと思っていたけれども、今は同じように演奏する彼を見ても、社会性の欠落した奇人が暴れているようにしか見えなかった。

 

 恋人は山本さんに別れを告げた。

 

 恋人に振られて間もない頃、山本さんがバイト先から家に帰る途中、道端にうずくまる若い女性がいた。山本さんは面倒なものを見つけてしまったな、と思った。辺りを見渡しても自分以外に人はいない。声をかけるしかなさそうだった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 山本さんが声をかけると、女性は「すみません、ちょっと酔っぱらっちゃって気分が悪くて…」と答えた。女性はとても美しい顔立ちをしていた。現金なものでさっきまでの面倒だった気持ちは掻き消えていた。「救急車を呼びましょうか?」と山本さんが言うと、女性はそこまではひどくありません、と言って首を横に振った。

 

「ならご自宅はどこです?タクシーでも呼びましょうか?」

 

 山本さんが言うと、女性はさらに大きく首を振った。

 

「家には帰りたくないんです。私、家族から邪魔者扱いされてるみたいですから…あそこにいると息が詰まるんです」

 

 女性の言葉には自分を顧みざるをえないところがあった。山本さんにとっても、やはり家族の存在は彼にプレッシャーを感じさせるものだったからだ。

 

「まあ俺も似たようなものなんでわかりますよ。でも道端に体調を崩した女性をほっとくわけにもいかんでしょう」

 

 そこで山本さんの内に微かな下心が芽生えた。山本さんはできるだけ冗談に聞こえるようにこう言った。

 

「俺のアパートが近くにあるんですが、うちでよければ泊っていきます?」

 

 山本さんが恋人に振られた理由は、その女癖の悪さにもあった。彼は何度もファンの女の子に手を出し、それを特に恋人に隠すこともしなかった。バンドマンとはそういうものだと思っていたのだ。山本さんの提案に女性は目を輝かせ、「いいんですか?」と言った。もちろん、と答える。思わぬ拾いものができた、と山本さんは心の中でほくそ笑んだ。

 

「でも…すみません…上手く歩けないので、肩を貸していただけませんか?」

 

 山本さんは女性に肩を貸すと、彼女を立ち上がらせ、アパートまで連れ帰った。彼女の柔らかな胸の感触がわき腹に伝わり、この身体をもうすぐ好きにできるのだという喜びが顔にまで込み上げてくることをなんとか抑えつけながら部屋にたどり着き、彼女をベッドに座らせた。

 

 「大丈夫?とりあえず酔い覚ましに水でも入れて来るよ」そう言って、立ち上がる山本さんの手を彼女は掴んだ。

 

 彼女は上気した熱っぽい顔を山本さんに向けながら潤んだ瞳で彼を見つめていた。そこで彼の我慢は限界に達した。山本さんは彼女を抱き寄せ、その熱く柔らかそうな唇に思い切り口づけた。

 

 しかし、唇に伝わってきたのは欠けた陶器に口を当てた時ののようなざらりとした嫌な感触だった。山本さんは驚いて彼女の顔を引き離した。彼が抱いていたのは、ボロボロにひび割れ、薄汚れたマネキンだった。