百怪風景

妖怪・怪談の紹介と考察を行うブログです。

邪魅

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鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

「邪魅」
邪魅は魑魅の類なり。妖邪の悪気なるべし。
鳥山石燕『今昔画図続百鬼』)

 

 

 邪魅は鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」に描かれた妖怪です。作家の京極夏彦先生が「邪魅の雫」という傑作長編小説を書いておられるので、御存知の方も多いかと思います。石燕の描いた妖怪たちの多くに関しては、妖怪研究家の多田克己先生をはじめとする偉大な研究者の方々の膨大かつ独創的な先行研究があり、今更筆者が触れる必要のある妖怪はそれほど残っておりません。しかし、邪魅に関しては資料があまり多くなく、少なくとも筆者の探した限りではまとまった研究や考察を見つけることができなかったので、本項で取り上げさせていただくことにしました(個人的に好きな妖怪だというのも理由です)。


 まず今昔画図続百鬼に描かれた邪魅の詞書から考えてみましょう。「邪魅とは魑魅の類である」と書かれています。魑魅とは山の化け物の総称ですが、邪魅もまたその一種であるようです。魑魅は山林の瘴気から生ずる化け物であり、よく人を惑わせるといいます。石燕の絵では、邪魅の下半身は消え入るように描かれているので、残念ながらこの妖怪が多くの山の妖怪たちと同じく一本足なのかどうかはわかりません(そもそも四足獣のように見えるので、仮に後ろ足が一本しかなくとも、「一本足」という表現は適切ではないかもしれませんが)。また寺島良安が編纂した「和漢三才図絵」では、魑魅は山の神とされており、沢川の化け物の総称でもある魍魎と合わせた魑魅魍魎という言葉は、あらゆる化け物の総称の意として用いられます。


 邪魅は本来、中国の妖怪です(石燕の絵には中国由来の化け物が多く記されています)。晋の時代に書かれた『神仙伝』には次のような話が載っています。

 

 

昔、王遥というあらゆる病気の治療に長けた仙人がいた。ある日、彼のもとに魔物に魅入られたという一人の男がやってきた。王遥は大地に牢獄を描いて魔物をそこに封じ込め、男を救った。

 

 

 この時に封じられた化け物こそが邪魅であるといいます。神仙伝の記述からも伺えるように、やはり邪魅は人の心を惑わせる悪い気であったようです。石燕の言うところの「妖邪の悪気」だったのです。石燕の描いた邪魅の姿は、前述したように下半身が半ば消え入るように描かれており、明確な実態を持たないことを示唆するような姿です。石燕はこのような描き方をすることで、邪魅はやはり実態のない「気」のようなものである、ということを表現したかったのではないでしょうか。

 

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(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

 「風の神」
風にのりて所々をありき人を見れば口より黄なる風を吹かくる。
其かぜにあたればかならず疫傷寒をわづらふ事とぞ。
(竹原春泉・桃山人『絵本百物語』)

 

 

 本邦では古来より、魔は風に乗って訪れると考えられていました。現代でも「カゼをひく」という言葉が残されているように、悪い風に吹かれた人間は背筋がゾクリと粟立ち、病に罹ってしまうのです。こうした「風の怪異」は精霊風やミサキ風などと呼ばれ、日本各地に伝えられています(そして、こうした伝承は特に九州地方に多いようです)。古来より、本邦では魔除けに刃物を用いますが、その理由の一つとして、刃物は風を切るからである、ということが考えられます。刃物を立て置くことで、風と一緒にそれに乗ってやってきた悪いものまで切り裂いてしまうわけです(どうも日本人は「死そのもの」に対する恐れもさることながら、「死に際してやってくるモノ」を恐れていた節があります。たとえば縄文時代の屈葬は、死体に何かが憑りつき、死者が再び動き出すことを防ぐことが目的であったという説がありますし、現代になっても各地の山村部などでは、死体に悪いモノが憑りつくことを恐れ、死体の枕元に刃物を置くような風習が根強く残っています)。


 それでは、「邪魅」という名前は何を表すのでしょう。「邪」とはよこしまであること、正しくないこと、人に害を及ぼすこと、を意味します。そして「魅」とは、人を引きつけること。心を迷わせることを意味します。また、魅は「すだま」とも読み、「すだま」とは物の精が具現化したものであり、山林の精でもあります。また「木魅」と書いて「こだま」と読みます。こだまとは樹木の精のことです。『もののけ姫』で有名ですね。

 

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鳥山石燕画図百鬼夜行』)

「木魅」
百年の樹には神ありてかたちをあらはすといふ。
鳥山石燕画図百鬼夜行』)

 

 

つまるところ、邪魅とはまさに「人に害をなす木の精」なのです。下半身が消えた石燕の邪魅はまるで「木」に宿った「気」がまさに具現化しているところのようにも見えます。邪魅もまた山に吹く悪い風なのでしょうか。

 

 もし山道で嫌な風に吹かれ、背筋に悪寒が走るようなことがあれば、それはもしかすると邪魅の仕業かもしれません。しかし恐れることはないのです。邪魅とは所詮、「木の精(気のせい)」なのですから。